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第13週:シェモット(名前)

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基本情報

パラシャ期間:2023年12月31日~1月6日

通読箇所

トーラー(モーセ五書) 出エジプト記 1:1 ~ 6:1
ハフタラ(預言書) イザヤ書 27:6 ~ 28:13、29:22 ~ 23
(セファラディーの間ではエレミヤ書 1:1~2:3)
新約聖書 使途の働き 7:17 ~ 29
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)

エジプトの助産婦から学ぶ、『行い』の重要性
ユダ・バハナ 

予備役に就くユダ・バハナ師
(ネティブヤ エルサレム)

出エジプト記は、ヤコブとその家族(11人の息子を含む)がエジプトに引っ越したという、記録から始まる。創世記の最後の10章の物語は、エジプトにすでにいる息子ヨセフが軸となっていた。そして彼と兄たちとの和解の後、イスラエルの子ら合計70人がエジプトに移住している。
 
そして聖書は、それがイスラエル民族にとって良い結果に繋がったと次の聖句で教えている―
 

イスラエルの子らは多くの子を生んで、群れ広がり、増えて非常に強くなった。
こうしてその地は彼らで満ちた。

出エジプト記 1:7

神の教え(トーラー)が血となり肉となっているか

最もなじみのあるアメリカのユダヤ人たち。
彼らの多くは19~20世紀にかけて移民してきた、アシュケナジー(東欧)系ユダヤ人たち。
(Library of Congress より)

どういうわけか、私たちユダヤ人は外国・離散の地で成功し、一見そこで成功しうまくやっている。そして私たちは増え、経済、文化、科学など、多くの分野でリードしていたりもする。そして私たちは国が成功するある種の触媒ともなった― ユダヤ人を保護した多くの国々は歴史的に繁栄しており、これはアブラハム契約の約束が真実であることを示している。
しかし多くの場合はユダヤ人の成功と繁栄が地元の人々の目に留まり始め、それが嫉妬と疑い・陰謀論へと変わり、その後追放されることも多々あった。
創世記の最後・ここ数週間で読んだ、ヨセフのジェットコースターのような人生を連想させる。
 
さて、今日だけでなく歴史上のどの時代・どの場所でも、私たちが成功するための最も重要なのは家族だ。そして私たちユダヤ人とその文化では、家族に大きなウェイトが置かれ、少なくとも金曜日の夜に、週に1度家族全員がテーブルの周りに集まり、しばしば友人や親戚も招待して食事を共にする。
また家族に加えて、教育と知識もユダヤ人の間では重要なものだ。また発明家や今でいうスタートアップの才能・創造性があり、様々な状況・環境に対して適応が早いと言うこともできるだろう。
 
そして私は個人的に、ここで神の手が私たちの民族を通して働いているのを見る。そしてヤコブとその息子たちを導く神に対する、信仰だ。これは今日まで有効であり、古代から2024年までの全ての時代・世代に当てはまる。そしてその信仰は実際的なレベルで言えば、高い道徳的基準や忠誠心、正直さや義を意味してきた。
 
創世記のパラシャで学んだように、ヨセフは成長することによってこれらの資質を学んだ。そして後に、それが彼の成功の基礎となった―  

彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。

創世記 39:3

ユダヤ人として、神のトーラー(教え・定め)とその原則が私たちにはDNAのように植え込まれており、それらが私たちを成功させ、繁栄という結果となった。そして新約・イェシュアの後の時代においては、これはユダヤ人のみに限定されるのではなく、神のみ言葉に自らを置き・委ねた全ての人々に当てはまっているのだ。
信仰において歩人は、水の流れのほとりに植えられた木のように、すること全てにおいて繁栄する。 

イスラエル国防軍の倫理的スタンス

国防軍の前戦闘部隊兵が持つ道徳律『IDFの精神』

イスラエル軍は(頻繁に戦闘に従事する国防軍としては)、最も人道的であると考えられており、私はここにも上記のような霊的基盤があると考える。イスラエルには幅広い政治的見解があるがそれに関係なく、私たちはこの地域の平和と調和を求めている。
誰も戦争と流血を望んではいない。本当にだ。

しかし自らの死・殲滅を望み、そのために動いている隣人が居る以上、自己防衛は現実的に必要不可欠であり、私たちはそんな『悲しい現実』を理解している。しかしイスラエルの兵士たちは、私を含め(相手を殺すことではなく)自己防衛をプライオリティとして行動するよう、教育されている。
聖であるのは死ではなく命であり、イスラエル国防軍の行動原理はトーラーの原則に基づいていると私は信じている。
 
その一例として、私たちは不必要な破壊や巻き添え被害を最小限に抑える義務がある。現在のガザ戦争ではここ50年で最大規模の戦闘となっているため、多くのガザ一般市民が犠牲者になってしまっているが、イスラエル軍は一般市民の被害が出ないよう尽力している。
これも命が聖であるということと、それに対する尊厳・信念からだ。 

(13tv.co.il より)

アラブ世界であっても多くの地域では、地元の子供が戦車の前に立ち、意図的に石を投げたりはしない。シリアやイラク・レバノンであってもだ。しかし、パレスチナ人の子供がイスラエル兵に対して投石している姿は世界中が目にしている。これは逆説的に私たちの兵士の道徳的基準が高く、投石しても自身に命の危険がないことを彼らが理解しているからだ。したがってイスラエルの兵士や戦車に対しては、そういった姿がよく見られる。
 
特に今回の戦争でも世界の目に留まることとなったが、ガザ地区のハマスをはじめテロ組織は、ロケットランチャーや軍事拠点を学校・病院などの『民用物』のなかに配置し、いわゆる「人間の盾」を使用している。これも上記の投石と同様、イスラエル軍が軍事的道徳観を守っていることを証明している。もし私たちが民用物と軍事物を区別せずに『無差別攻撃』をしていたとすれば―人間の盾は意味をなさない。ハマスが人間の盾を続けている理由は、イスラエル軍が戦争倫理を守っているからなのだ。
 
私はそんなイスラエル国防軍、ヘブライ語で「ツァハル(צה"ל)」を誇りに思っている。テロリストを阻止し、私たちの家を守り、それを行いながら「命の聖さ」と「武力の倫理的使用(purity of arms)の原則」を維持している―
そんなイスラエル軍の一員として、兵役に就いていることに関しても、誇りを感じている。 

エジプトがイスラエルびとを弾圧した理由

(haaretz.com より)

話をエジプトに戻そう。
繰り返しになるが、ヤコブの息子たちの神への信頼とその信仰が彼らを繁栄へと導いた。
土地が彼らの子供たちで埋め尽くされるまでに成長し、増え広がり強くなった。ここで私たちはエジプト、外国で起こった成長について読むのだが、約束のカナンの地での出産は大変・困難だったこととは対照的だ。私たちの母親の多くは不妊であって、子供の誕生に特別な目的と意味があった。子供たちは困難のすえ、独特な形で生を受けたのだった。
しかしエジプトという異邦の地では、彼は短時間で土地を埋め尽くすほどに成長した。イスラエルの子らは、肥沃で繁栄した土地ゴシェンの地域に住み、子宝に恵まれ土地を埋め尽くしたのだ。 

エジプトの地はおまえの前にある。最も良い地に、おまえの父と兄弟たちを住まわせなさい。彼らをゴシェンの地に住まわせるがよい。彼らの中に有能な者たちがいるのが分かったなら、その者たちを私の家畜の係長としなさい。

創世記 47:6

ヨセフの時代から長い年月が経ち、ヤコブの息子たちは成長して国になった。
そして新しいファラオが即位し、エジプトを支配し始めた。彼はおそらく、イスラエルびとの成功・繁栄を快く思わないエジプト人たちを満足させたかったのだろう。平均的なエジプト国民は、自身の経済的な状態や貧困に不満を持っていただろう。

ゆえにエジプト人は、ヤコブの息子であるイスラエルびとを嫉妬とともに見ていた―

  • なぜ彼らは私たちにはないような、富・財産を持っているのか?

  • なぜ彼らが重要な地位に就くのか?

  • その成功・富はどこから来ているのか?

  • 彼らは私たちから搾取し、盗んでいるのではないか?

エジプト人は自分たちの富を取り戻したいと思っていた。
建前の意見・言い訳は、イスラエル人がエジプトの存続を脅かすような存在になり、エジプトが戦争に臨む際にその敵に加わり、内部からエジプトを攻撃し崩壊させるのではないか、というものだ(出エジ1:9~10)。

しかしエジプト人の敵意の本当の理由、本音は少し違ったものだっただろう。
イスラエル人の富と地位、成功への嫉妬だ。しかし彼らはそれを認めたくなかった。なので代わりに、安全保障上のリスクであり、エジプトという帝国にとって危険をはらんでいると主張したのだ。
 
そして、エジプト人がとった最初の一手が真実を明らかにしている。彼らはまず、イスラエルの子らに徴税人を課したのだ(日本語では労務の係長・司となっている)。課税とは経済的損害・打撃を与えるものであり、ここからファラオとエジプトの民は、イスラエルの経済的成功に嫉妬していることが明らかになっている。
自分と自分の子供たちに属すべきエジプトの富・財産を、なぜ外国人であるイスラエルびと独占しているのか? 

そこで、彼らを重い労役で苦しめようと、彼らの上に役務の監督を任命した。また、ファラオのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。

出エジプト記 1:11

さらにエジプト王国は、イスラエルびとを肉体・精神的に疲労困憊させれば、彼らの生殖能力が削がれるのではと考え、強制労働も用いてイスラエルの子らを弾圧した。しかしそれはうまくいかず、逆の結果を生む事となる― 

しかし、苦しめれば苦しめるほど、この民はますます増え広がったので、人々はイスラエルの子らに恐怖を抱くようになった。

出エジプト記 1:12

イスラエル/ヤコブの子たちの人口はかえって増え続け、エジプトに搾取されているという怒りを、彼らも感じ始めた。
こうして対策は新たな大きな問題を生み、雪だるま式の悪循環になっていった。 

助産婦たちに下した殺害命令

ヘブルびとの赤ちゃんを殺害するよう命じられた、
助産婦シフラとプア。

そこでファラオは、有名な助産婦シフラとプアに秘密の指示・役割を与える。イスラエル、ヘブルびとの赤ちゃんを殺せ
もちろん我が子を殺す助産師を呼ぶ家庭などない。したがってこの命令が、エジプト王国の中枢部しか知らない極秘情報・任務であることが分かる。
こうしてファラオの次なる一手・対抗策は生まれた赤ちゃんの数を制御し、人口問題を対処する。
しかしここでもエジプトの思惑とは逆に、助産師たちはファラオの命令に従わなかった(1:17~20)。 

なぜ彼女たちは、ファラオの命に背いたのか?
「新しい命を(殺めるのではなく)生かす」という、彼女たちの職業・プロとしての流儀・プライドか?それとも、無力で罪のない赤子への母性なのだろうか?
トーラーは、神を恐れたので赤ん坊を救ったと強調している。神への信仰が、助産婦にヘブライ人を助けさせた。彼らは危害を加えることを控えただけでなく、ヘブライ人の赤ちゃんを積極的に救った。 

しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはしないで、男の子を生かしておいた。

出エジプト記 1:17 

聖書は続けて、彼女たちの行動が神によって報われたと記している。またユダヤの聖書注解ミドラーシュは、彼女たちについてこう述べている。
 

義人の女性により、私たちはエジプトでの奴隷の身から救われた。

メヒルタ・ラビ・イシュマエル15:20

ファラオとエジプトがヤコブの子たちを滅ぼし排除しようとしたが、数人の女性がそれに反対し、命を救うために力を合わせた。そして結果的にこの女性たちの行動が、イスラエル民族全体を救ったのだ。
 
この2人の助産師による英雄的行為の後の2章、モーセの母ヨケベデと姉ミリアム、そしてモーセを救い息子として育てたパロの娘が登場する。
このミドラシュ(メヒルタ)は続けて、当時イスラエルの救いに向けて積極的に働いた多くの女性が他にもいたのだと解釈している。そしてこれら義にかなった女性たちのおかげで、イスラエルはエジプトから贖われた。
このような解釈にもあるようにこの箇所は、神の計画を実現させるため積極的に行動する女性の行いを強調している。 

信仰or行いという二者択一

(vecteezy.com より)

これはメシアを信じるビリーバーの共同体で、よく聞かれる議論に繋がる―信仰と行い、どちらが重要か?
本当にどちらかを選ぶように強いられたなら「信仰」と答えるだろうが、どちらか一方を選ぶのは不可能であり、的を得ていない質問だ。本質的にこの2つは不可分なものであり、切り離されることなく繋がった形で一緒に立っている。 

例えばマタイ22章で、イェシュア最も偉大な戒めは何かと尋ねられている。そしてイェシュアはそれに対して、1つではなく2つの戒めで答えられた―

  1. あなたの神、主を愛しなさい。

  2. あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。

このように信仰と行いを二者択一することは、聖書のメッセージを全体像として掴んでいないことを意味している。
 
イェシュアの答えと同様、私たちビリーバーは『信仰を実行』しなければならない。
この二つは、一つなのだ。
 

2つの家の譬え(マタイ7)から

(istockphoto.com より)

岩の上と砂の上に建てられた二つの家の譬え話を、見てみよう。
最も有名なイェシュアの譬え話のーつであり、マタイ第7章だ。そしてこの譬え話の最初、21節でイェシュアはこう言っている。 

わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、
天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

マタイ 7:21

イェシュアがフォーカスを置いているのは、「主よ、主よ」と言う、信じるだけのビリーバーではなく、わたしの父の意志を行なう者だ。
 
信仰とは私たちの出発・立脚点であり、神と神の言葉(=聖書)、そしてメシアであるイェシュアへの信仰のことだ。
そして私たちの基盤は、イェシュアだ。彼を通してのみの救いであり、行動によって救いを買ったり自力で獲得することは不可能だ。イェシュアは救いへの道、鍵であり、それは私たちの行ないではない!
しかし、私たちには信じたうえで義なる生活を送るという召しと義務が課されている。私たちは信仰を中心とした生活の中で生き、その姿を示す必要がある。イェシュアが道・人生であり、私たちはイェシュアを信じるだけでなく、イェシュアと歩まなければならないのだ。
 
そしてイェシュアは私たちに信仰の実を結び、収穫することを要求されている。信仰と行ないという両輪によって進む、生活だ。私たちは周囲を照らす光として高い道徳的規準を持ち、人々を助け周囲の人々の模範として仕えるように求められている。
 
さてイェシュアは、砂の上に建てられた家と固い岩の上に建てられた二つの家を比較している。
砂の上に家を建てた人は、地盤を固めるという骨の折れる作業を怠り、省エネで楽に家を建てた。イスラエルでの家づくりは、岩を削り平らにするという作業から始まる。柔らかい砂の上に自分の家を建てるということは、この砂・土を取り除いて岩盤に達し、そこを平らに削って形作ることを行わないことを意味する。
その反面、岩の上に家を建てたもう一人の方はそれを念入りに実行し、一生懸命働いた。岩を削って彫り、固い地盤に土台を注意深く構築した。
 
家が完成した後に冬が来、雨と嵐が起こった。イスラエルでは雨が降る=冬だ。そして岩の上に建てられた家はしっかりとした土台を有しているため立ち続けたが、砂の上に建てられた家は崩壊した。
土台の下の砂が雨水で洗い流され、基盤を失ったからだ。
 
イェシュアはこのたとえ話で私たちに何を教えたいのだろう?
砂の上に家を建てた人は、イェシュアの言葉を聞き信じたが、それを行動にうつさなかった人のように思う。ビリーバーとして、しなければならないことをしなかった。自己改善や古い自己を捨て去るという行いに、適切な形で取り組まなかった。
 
では、岩の上に家を建てた人はどうか? 

ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、
それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。

マタイ 7:24

聞き信じたうえで実践する者こそが、神の言葉を成就させている。
私たちの人生の原則が神の言葉に基づいて築かれ、それが人生を通して私たちを導き、私たちの行動に影響を与えるとき、私たちは祝福され、すべてのことにおいて祝福され成功する。
 
これがイスラエルという民族、そして(ユダヤ人・異邦人を問わず)イェシュアを信じる共同体としての、成功の本当の秘訣だと思う。そしてこれがイスラエルを守る、軍の秘密でもある。
私たちが神のみ言葉に従っていつ・いかなる場所でも行動するよう、祈り執り成して頂ければと思う。
 
来週、私たちは神の贖いの始まりとも言える十の災いを味わうこととなる。
次のパラシャの学びにも期待しつつ。
シャバット・シャローム!

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