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第39週:フカット(定め・法)

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基本情報

パラシャ期間:2024年7月7日~ 7月13日 

通読箇所

トーラー(モーセ五書) 民数記 19:1 ~ 22:1
ハフタラ(預言書) 士師記 11:1 ~ 11:33
新約聖書 ヨハネ 3:1 ~ 3:21
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

真鍮の蛇に類似するメシア
ユダ・バハナ 

2023年10月の予備役中、
ネティブヤのユダ・バハナ師(左)と
ティフェレット・イェシュアのギル・アフリアット師が偶然の再会。

パラシャット・フカットは出エジプトのなかでも極めて重要な物語だ。
イスラエルの民は40年間荒野をさまよった後、ついに約束の地に入ろうとしている。しかし同時に、愛する指導者である女預言者ミリアムや祭司アロンを亡くすなど、荒野の世代と別れなければならない。
またイスラエルが各民族の土地に入ることを妨げられ、逆らう者たちのために岩を打ち水を出すなどのエピソードもこのパラシャからだ。またエドムの王やアモリ人の王シホンとも、通行をめぐっての外交事件が起こった。 またハフタラ(預言書)の士師記 11 章では、ギルアデ人エフタとアモリ・アンモンびととの戦いについてだ。
 
興味深いことに当時のように今日においても、私たちイスラエルは祖国を守るだけでなく、この土地に関する所有権を証明し続けなければならなかった、ということだ。そしてもう1つ有名なパラシャ内のエピソードは、イスラエルの子らが再び神・モーセに不平を言ったため、蛇が神から罰として与えられた話だ。聖書では蛇が神からの罰として登場することが何度かある。 

見よ。わたしが、まじないのきかないコブラや、まむしを、あなたがたの中に送り、あなたがたをかませるからだ。主の御告げ。

エレミヤ 8:17 

そして罰の後にモーセは、神の指示に従って真鍮の蛇を準備する。そしてその蛇は、それを見た者に癒しをもたらした。 

聖書的世界観=死ではなく命を

宗教的なユダヤ人の医師たち。
彼らは命を助けるためであれば、安息日の労働も許されている。
(israelhayom.co.il より)

パラシャ名「フカット」は、直訳すると「律法・定め」という言葉だ。そして冒頭部では最大の不純物・汚れである『死』を取り扱っている。そして神は死によって引き起こされた汚れのために、赤い雌牛を与えてくださった。
ここでは生と死が完全に分離されるべきであること、そして次の世界に渡った人々とこの世で生きている人々の分離について学ぶ。また同様に、(同じ天幕に住む)家族の誰かが亡くなった場所も汚れ、分離されることになる。そして汚れた人は、清められなければならない。なぜなら、そうしなかった場合にはこう規定されている― 

すべて、死んだ人の遺体に触れ、罪の身をきよめない者はだれでも、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断ち切られる。
その者は、汚れをきよめる水が振りかけられていないので、汚れており、その汚れがなお、その者にあるからである。

民数記 19:13 

生きている者と死者の世界は、明確に分離されているのだ。
聖書は私たちの現実は今ここにあり、神の戒め・教えはこの世界のために与えられていると説明している。誰もが人生は神からの贈り物・ボーナスであることを覚えておくべきだ。確かに私たちは死後の世界があり、イェシュアが門に居る天国・来たるべき世界を信じている。
 
それでもやはり、この世界が私たちの居場所でありフォーカスだ。ここで私たちは試され、報われもする。例えば、「父と母を敬え」と私たちは命じられているが、神は私たちを早くご自分のもと・天に連れて行くと約束したのではなく、この地上での長寿を約束している。

あなたの父と母を敬え。
あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

出エジプト 20:12 

そして神の戒めの本質は、私たちが「いのち」を選ぶことだ(申命記30章)。
 
とは言っても、ユダヤ教にも「イェハレグ・ベ=アル・ヤアボル(殺されても、違反しないように)」という、命を捨てても守るべきものがあるというコンセプトがある。しかし命よりも価値のある戒めは三つだけ― ①殺人、②近親相姦、③偶像礼拝の、3つだけだ。これらの禁止事項だけが、聖書で最上とされている命を超えるものであり、その他すべての戒めは命との天秤にもかけてはならないのだ。上記3つ以外の戒めであれば、それを守らないまたは違反することにより命が助かるのであれば、命を救うために違反すべき・守らないべきと言うのが原則だ。例えばユダヤ教の観点からも医師は安息日に病院に勤務し、『働く』ことができる。神の律法とはいのちの律法であり、命を守るためであれば(3つの例外を除き)全ての戒律が無効化される。
 
メシアニック・ジューを含め、ユダヤ文化を霊的に一言で言うなら『いのちの文化』だ。
この世界において私たち命を持たされた者は1人1人が本当に特別かつ重要で、非常に大きな意味があり、神が大きな愛を持ち、特に人は神のすがたにかたどって創造された。そして自身の創造物を保ち、維持するために、神は私たちをご自身の庭に置かれたのだ。
 
この視点・聖書に基づくユダヤ的世界観をもって私たちは、ここでの生活を改善するため努力する。つまり痛みを和らげ、互いに支え助け合うのだ。これは死を神聖なものとし、死者がインスピレーションとなっている自爆テロが模範とされる、隣人の文化とは対照的だ。死の文化では、宗教の名による殺人は合法であり価値あるものとされている。 

私たちの心をも清めるイェシュア

神殿の丘の南にある、身を清める沐浴所(ミクベ)。
しかしイェシュア/イエスは、私たちを内側から清める。
(jcpa.org より)

今週のパラシャは、死から私たちを遠ざけようとしている。死によって汚染はされるが、神は私たちに純粋さを保つよう求めている。では、今日、私たちはどのようにして命という聖さ・純粋さを守ることができるのだろうか?
 
そして新約聖書は、この構造全体を再編成している。私たちには死の汚れから清める赤い雌牛がなく、犠牲を捧げることもできず、神殿も祭司もない。そんななか、イェシュアが解決策を具体的に示している。私たちに必要なきよさを受け取ることができる源こそ、イェシュアなのだ。ヘブル人への手紙によると、祭司の奉仕・犠牲ときよめによる赦しなどが全て、聖さの源であるメシア・イェシュア(イエス・キリスト)を指し示している。
このようにヘブル人への手紙は、イェシュアの重要性を説明する。メシア・イェシュアは完全で純粋で神聖ないけにえ・捧げ物であると同時に、天の幕屋の大祭司でもある。この神聖な幕屋は、人の手によるものではない。
 
新約聖書で繰り返され最も重要な点の1つは、イェシュアが清く純粋であり、また私たちを清めるに相応しいということだ。赤い雌牛の灰とは異なり、イェシュアは私たちの外側ではなく、私たちの心をきよめる。

もし、やぎとおうしの血、また雄牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それがきよめの働きをして、肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて、死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

ヘブル 9:13~14 

山上の垂訓(マタイ5章~7章)を読むと、イェシュアが私たちの心に律法を書き記すため遣わされたことがわかる。その結果、神と周囲の人々に対する私たちの献身は、単に外面・表面的なものだけではなくなる。イェシュアを通して私たちは御言葉を心の中に入れ、内面化することを可能にする。同様に神の御言葉に対する私たちの献身と責任が私たちの内から生まれ、日々の生活を通して目に見える形で現実的かつ具体的なものになるのだ。 

ヘブル書とエレミヤ書

西暦70年の第二神殿崩壊。

ヘブル人への手紙には、新しい契約に関するエレミヤの預言が8章と10章に二回引用されている。8章にはおそらく新約聖書の中で最も長い引用がある。その目的は何なのだろうか。ヘブル書の著者は、自身の時代と預言者エレミヤの時代に多くの類似点があることを見ている。
ほとんどの学者は、ヘブル人への手紙が書かれたのは、第二神殿の崩壊(西暦70年)またはその直後とみている。エレミヤは第一神殿が崩壊した時代に活動している。どちらの時代も、その当時の宗教指導者は腐敗しており、倫理観は崩壊していた。
 
多くのエルサレムの住民は逃亡・亡命し、人々の暮らしは出口の見えないトンネルのような状態で、将来を皆が危惧し恐れていた。そんな時代にヘブル人への手紙は、励ましのために書かれた。「あなたがたは見捨てられたわけではない」というメッセージだ。そしてその励ましのもとはメシア・イェシュアであり、彼はあらゆる祭司の義務と犠牲、赦しときよめのための要求を満たすのだ、と。
 
そして第8章の終わりでは、こう説明している。 

神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。
年を経て、古びたものは、すぐに消えて行きます。

ヘブル 8:13 

これは神殿の働きと犠牲のことを語っている。
当時の人々と同様に私たちもまた、ユダヤ的には奇妙な現実に直面している。神殿も祭司も犠牲もなく、きよめに関する答えがないという現実だ。この聖句の目的は、もはや存在しなくなった地上の祭司の仕事を天の大祭司に引き継ぐことだった。

すなわち、私たちの大祭司は、天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。

ヘブル 8:1 

私たちのきよめは、イェシュアを通して初めて可能となるのだ。
 
ヘブル人への手紙8~10章の主な焦点は、きよさ、罪の赦し、祭司の律法、犠牲に関するトピックだ。ヘブル人への手紙はトーラーの内容と戒めについて、詳しくは論じていない。しかしそれは、第二神殿の破壊に続いて祭司や犠牲が無効となった現状において、メシアの血が私たちと私たちの生活を清めるという事実を反映したものとなっている。 

荒野で不満が生まれた理由

荒野での40年は荒野という厳しい気候はありつつも、
衣食住への苦労はなかった。

前に述べたように、今週のパラシャは聖書の時間軸で言うと長い期間をカバーしている。出エジプト記12章から民数記20章までは、わずか2年~2年半しか経過していない。しかし民数記20章で突然、荒野での40年目を迎えて古い世代がいなくなり、新しい世代が生まれ、約束の地に入ろうとしている。
 
そしてこの時・場所で、カナン人に対する勝利と捕虜の解放の後、イスラエルは再び不平を言う。 人々は長旅、マナ、水不足について不満を漏らす。そして、蛇の罰がもたらされた。
なぜこのようなことになるのだろうか?
 
これには二つのことが組み合わさっていると思う。ーつは自信のなさと不確実な状況の結果、人々がもがき焦っていること。そしてもう一つは、感謝の欠如だ。豊かに暮らしているにもかかわらず、どの世代でも不平を言ったり感謝を忘れたりするのは普通であり、悲しむべきことだ。
 
出エジプト世代は40年前に自由を手に入れた。彼ら第1世代は、奴隷の世代として旅を始めた。彼らは傷つき、怯え、奴隷となって、ある種奴隷のメンタリティーに慣れていた。奴隷という生活サイクルに慣れていた。しかしある晩突然、出エジプトによって自由が与えられたのだ。これは誰にとっても180度全てが違う、新しい状況だ。
 
そして大自然での放浪を通して、彼らは新たな境界線を模索し、何が許され・禁じされているかなどを把握するようになった。同時に、彼らは極度の不安の中に暮らしており、特に荒野の旅の始まりの頃は、あらゆる困難と危険により、元奴隷たちはエジプトという『刑務所』に戻りたいと考え、実際にそう言った不平を漏らした。
 
しかしこのパラシャで私たちは、荒野で生まれた新しい世代に会う。
彼らにとってエジプトでの奴隷生活は単に聞いた話にすぎず、実際に経験したわけではなかった。この世代は自由の身で生まれてきたため、彼らの突然の苦情は私たちの不意を突くのだ。
苦情の理由の1つは、未知のものに対する恐れ、変化に対する恐れだろう。この世代は生まれてこのかた荒野という危険にさらされた環境ではあるが、神により保護された状態で暮らしていた。神が全てを世話していたからだ。天のマナを与え、雲の柱で彼らを正しい方向に導いた。奇跡的に、彼らの服も擦り切れなかった。
 
しかしそれが今終わり、全てが変わろうとしていた。
かつて人々は、外に出て日々のマナを集めるだけですんだ。しかし明日からは、雑草やいばらだけでなく、そこの土壌が食用に適した果物を生み出すことを期待しながら、種を植え、肥料をまき、灌漑しなければならない。 約束の地では、創世記のこんな呪いに戻ることになるのだ。 

また、アダムに仰せられた。
「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」

創世記 3:17~19 

青銅の蛇とイェシュア

このような不平から神は燃えた蛇を使って、イスラエルの多くの命を奪った。その後イスラエルは悔い改め、赦しを求める。そこで神はモーセに真鍮の蛇を作るよう命じた。新約聖書でも、癒されたい人は誰でもイェシュアに頼るべきとされている。 

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、人の子を信じる者が、みな永遠のいのちを持つためです。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは、人の子を信じる者がみな、ー人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。

ヨハネ 3:14~16 

これはおそらく聖書の中で最も美しい聖句だ。同時に新約聖書の要約であり、救いの概念を端的に説明している。荒野の蛇のように、メシアはすべての人のために高く上げられなければならない、そして彼を見る者は誰でも救われる。神は私たちに永遠の命を与えるために、ご自分の独り子を与えてくださったほどに、世を愛されたからだ。
 
この類似点は何か?この話は今日においてもとても重要だ。
私たちには必要なものがすべて揃っており、必要以上のものを持ち真に豊かな生活を送っている。しかしいつも感謝しているわけでなく、私たちは神と人々の前で罪を犯す。神は私たちを正すために、蛇を送ってくるかもしれない。
もちろん、その蛇とはさまざまな問題や困難かもしれない。
 
しかし悔い改めて神に忠実に再び仕える準備ができたとき、神は私たちにイェシュアを与えてくださる。そして、イスラエルの子らが真鍮の蛇を見て癒されたように、私たちもイェシュアを見て癒されるのだ。イェシュアは、心も含めて、私たちを完全に癒してくださる。
神は私たちの石の心を、優しい愛情深い仕える心に変えるのだ。
 
モーセが神の指示に従ってこの蛇を作ったので、蛇の像は重要な注意として役立つ。もし今日そのような蛇の像があったら、非常に特別で印象的だろう。人間として、私たちは思い出を持ち帰るお土産や写真などが好きであり、それらは記憶する手助けにもなる。
 
そしてトーラーは、私たちに覚えておくようにと命じている。こうして私たちユダヤ人はエジプトからの脱出を思い出し、安息日を思い出す。アマレクが私たちの人々に対して何をしたかを、思い出す時もある。神の言葉とその戒めを、ツィツィート(服に付けたふさ)を見て、時には触れて思い出すようにと命じている。メシアを信じる者として、私たちはイェシュアによる罪の赦しを記念・記憶し、主の晩餐に参加する。
 
人類学的角度から厳密に考えれば、真鍮の蛇は偶像になるかも知れない。
世界中から病気の人々が、癒されることを願ってこの地を訪れて像を見上げる様子は、容易に想像できるだろう。そしてそれは、まさにユダ王国時代に起こったのだ。ヒゼキヤ王は、真鍮の蛇が偶像崇拝になったことを理解し、それを壊した。 

彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。
そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。

第2列王記 18:4 

蛇が癒すのではない。神が癒やされるのだ。
同様にメシアを信じる者として私たちは、神とイェシュアを生活の中心に置く。神とイェシュアのみで、その他にはない。 イェシュアが私たちの癒し手だからだ。
 
日本の皆さまのうえに、豊かな週末があるように。
シャバット・シャローム!

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