第32週:ベ=ハアロテハ(あなたが設置する・載せる時)
基本情報
パラシャ期間:2023年5月28日~ 6月3日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 民数記 8:1 ~12:16
ハフタラ(預言書) ゼカリヤ 2:10 ~ 4:7
新約聖書 ルカ 10:1 ~ 24
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
メノラとレビびとに学ぶー
ヨセフ・シュラム
このパラシャ「ベ=ハアロテハ」を訳すと「(メノラを)設置する時」というような意味になる。メノラとは幕屋・神殿にある、燭台である。今週のパラシャで私たちは、このメノラ・燭台を作る方法とその設計の指示を受けているので、そこから共に読み進めていこう。
神殿のメノラと7つの教会
メノラ・燭台には中央のにともしび皿・ランプが1つ、そして左右に3つずつあり、合計で7になる。
さて、新約聖書において燭台は重要な役割を果たしているが、ここと関連性が深いのが、黙示録1章から言及されている、小アジアの7つの教会だ。各教会はメノラにある7つのともしび皿とその灯りの1つずつであり、全てが一緒・ひとつになって1つのメノラを形成しているのだ。だからこそ、今日の私たちにとって、黙示録のベースともなるメノラがどのようなものだったのか、理解することが大切だ。
まず特筆すべきポイントは、この一節だ―
何気ない一節だが、ここで重要なのは鋳型に流して整形する鋳造ではなく、1つの金の塊を叩き、打って作られたという工程だ。この作られ方にも、きっと特別な意味があるはずだ。
小アジアの七つの教会には、それぞれに深刻な問題と罪、そしてそこからの悔い改めの必要性と課題があり、ヨハネは黙示録でそれを指摘している。では、なぜこれら7つの完璧とは程遠い教会たち、7本のろうそくの燭台を持つメノラと呼ばれているのか。その理由は、ここ民数記 8:4だ。幕屋・神殿のメノラは、ばらばらだった金を溶解させて鋳型に流し込んで作られたのではなく、1つの塊を打ち叩いて作られたものだ。7つの燭台は作られる工程の中で、1度も離れたことはない。常にひとつ(の地金)だったのだ。
そして「打たれた/打ち出された物」は、7つの教会がメノラの原材料である金の塊と同様、様々なそして多くの困難や迫害(ハンマーによって叩かれたこと)を乗り越え、時には内面的な問題も抱えてながら成形されていった、ということと繋がって来る。
これがヨハネが小アジアの7つの教会に対して、あるべき姿として示している「メノラのイメージ」なのだ。7つの教会にはそれぞれ非常に深刻な罪・問題があるが、それでも彼らはメノラからは決して切り離されない。
神殿・幕屋を照らすメノラと同様に、イェシュア(メノラでは金)という混じりけのない地金から形成され、1度も切り離されずに『打ち出し』によって作られた一部だ。
そしてそれぞれに問題があったとしても、ローマ帝国内で異教・偶像崇拝という暗い環境の中、光を照らすメノラなのだ。幕屋・神殿のメノラは365日24時間常に油が絶やされることなく、光を放ち続けていた。そして幕屋には窓がなく外交を取り入れることはなかったため、このメノラが唯一の光源だった。偶像崇拝という暗闇が立ち込めていた、1世紀のローマ世界とそこに置かれたメノラ(教会)を連想させる。
もちろん罪や問題を悔い改めずに放置することは許されないが、キリストのからだから簡単に切り離されているわけではなく、7つの教会が問題・罪があってもメノラ、そしてメシアの肢体の一部である、というのは励ましのメッセージだ。
レビびとから見る贖い
メノラ・燭台の次には、レビ人の奉献が出てくる。レビ人はレビ部族の祭司以外の民のことで、幕屋で主に仕える前にきよめられなければならなかった。
民数記8:6で、彼らはまず祭儀的に清められている。もちろん衛生面という観点からも入浴しただろうが、儀式的な観点からも沐浴という清めを行わなければならなかった。彼らの衣服はきよめられ、洗われなければならなかった。そして罪のきよめのささげ物、そして全焼のささげ物といういけにえを捧げ、宥めを行う必要があった。
そしてこのパラシャには、イスラエル人の母親のもとに最初に生まれた長子はみな、主にささげられなければならないと書かれている。16節で、レビ人はイスラエルびとの全ての長子の代わりに、贖われなければならなかった。その理由は、民数記8:15~18にある―
言い換えると、出エジプトの際の10番目・最後の災いで、エジプト人の長子の死を代価としてイスラエルの長子たちが救われた。したがって(もともとは死ぬべき定めだった)イスラエルから生まれた長子は、神に属することになった。
つまり、イスラエルの長子の代わりに取られたレビびとたちは、イスラエルの(生きている)長子たちだけでなく、エジプトの長子たちの死も贖っている、とも言えるのだ。
そしてレビびとによる贖いとは、幕屋で神に仕えることだった。この代価を支払うというのが、贖いというコンセプトの1番のベースになっている。
さてここから私たちが一般的に使用する贖い=救われるということに話を移そう。標準的な福音主義的キリスト教会では、救われることは審判の日と関係しているある。あなたは生き、そして死んだが、救われた。したがってあなたは聖徒たちとや神、そしてイェシュア(イエス)や天使たちと、天国で永遠に過ごす。これは間違いではない。
しかし、このパラシャに登場する贖いは、天国に行くためのものではない。この地上において、いかにして神に仕えるか、というものだ。レビびとは死んで天国に行くことを待つのではなく、50歳で「定年退職」するまでの間、神に仕えることになっていた。彼らはこの地上で神のために奉仕し、生涯にわたって献身したのだ。
イスラエルの子らと、神によって撃たれたエジプトの長子を贖うため、レビびとは幕屋で仕え、そのために捧げられなければならなかった。
贖われた= 神の軍団への入隊
さて、ここから私たちは何を学ぶべきだろうか。
まず第1に、私たちイェシュアの弟子たちは、この世で今すでに召されており、神との提携関係の中にいる。レビびとは神に仕える義務があり、私の家族は父母ともにレビ族の出身だ。エルサレムに神殿があれば、私はレビ人として仕えるように召されていただろう。だが70年以降、私たちに神殿はない。
しかし、イェシュアのユダヤ人と異邦人の弟子たちが理解しなければならない、『贖い』とコンセプトは現在も有効なものである。そして私たちの贖いは恵みによるものだが、それは義務を伴うということを理解する必要がある。
10番目の長子の災いで死んだエジプトの長子、そして(神の恵みという過ぎ越しがなければ)死ぬべきだったイスラエルの長子たちの代価を支払う=贖うレビびとは、幕屋で仕えるという義務があった。
彼らは自分がやりたいこと、「普通に、幕屋・神殿と関わりのない人生を送りたい」と臨んだとしても、そんな人生を送る自由・権利はなかった。彼らは幕屋で仕えなければならず、神への奉仕こそ、エジプトとイスラエルの長子の贖いのためだった。
さて贖いに付随するレビびとの義務に関して、次の聖句を読むとよく分かる。
主はモーセにこう告げられた。
「これはレビ人に関わることである。二十五歳以上の者は、会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。」
民数記 8:23~24
ここの「務めを果たす」という表現は、直訳すると「軍隊をもって戦争を行う」という単語になり、軍という意味を持つ「ツァバ(צבא)」という語根が2度繰り返されており、まるで兵役に就くような雰囲気が伝わってくる。
25・26節にあるように、25歳から50歳までのレビびとは、軍隊にいるようなものだ。レビ人の長子は、軍隊にいるような存在で、幕屋に仕えている。50歳になると、幕屋での奉仕をやめることができ、自分の仕事に励んだり、幕屋で手伝ったりすることになる。
贖いの代価は神に仕える軍団に入隊することであり、そこには軍特有の厳しさもあることをこのパラシャは教えているのだ。
まとめ
歴史的にキリスト教的な思想は「贖われ救われた」という点がフォーカスされるため、義務や軍隊の話をしたため、少し読者の方々を怖がらせてしまったかも知れない。
しかし最初のメノラでも述べたように、罪や問題があったとしてもメノラが1つの塊から作られたことから分かるように、私たちは常にメノラの一部であり続け、冷酷に切り離されることはない。
レビびとが幕屋で仕えたのと同様に、贖われた私たちも各々が神から受けた「幕屋での奉仕」を、イスラエルそして日本の地で、互いに励まし合いながら行っていこう。
あなたがたすべてに神の祝福があるように。
シャバット・シャローム!
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