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第37週:シュラフ(送れ)
基本情報
パラシャ期間:2024年6月23日~ 6月29日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 民数記 13:1 ~ 15:41
ハフタラ(預言書) ヨシュア 2:1 ~ 2:24
新約聖書 ヘブルびとへの手紙 3:7 ~ 4:13
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
信仰と信仰の欠如
ユダ・バハナ
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(ネティブヤ エルサレム)
今週のパラシャ(ユダヤ的聖書朗読箇所)も複数のトピックを扱っており、さまざまな考えを起こさせるものだ。しかし中心的かつ最も重要なトピックは、スパイの罪だ。この恐ろしい罰によりイスラエル民族は、その世代全部が死ぬまで40年間荒野をさまようこととなった。ヘブライ語話者の読者の注意を引くもう一つの箇所は、「サラフティ・キ=ドゥバレハ」という「あなたの言葉どおりに私は許した」という、14:20の御言葉だ。ヨム・キプール(大贖罪日)の祈りで、私たちはこの御言葉を繰り返す。しかし神は赦されるが、それでもイスラエルは罰を受けたのだ。
神のとメシア・イェシュア(イエス・キリスト)の赦しについて、この物語から学ぶ教訓は何だろうか。
またパラシャの終わりには安息日に薪を集めた男と彼が受けた罪、というまた別の難題に遭遇する。彼は石打ちの刑という、厳しい罰に処せられた。そしてパラシャの締めくくりは「ツィツィート(ユダヤ人男性が身に付ける房)」の戒めだ。これは神の戒めの念押し、とも言えるだろう。
スパイたちの派遣
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パラシャの冒頭に戻ろう。
スパイたちは約束の地を偵察し、イスラエルがそこに入る準備をする指令を受ける。スパイに選ばれた人たちは各部族の長という、重要な人物でイスラエル民族を指揮・指導する立場だった。この作戦は攻め込む土地を事前に調査するというもので、地理を加味した作戦地図を作成するため殊部隊を派遣するというものだ。そしてこの戦闘計画は、それぞれの部族の長所・短所を表面化させることになる。
ここで出てくる最初の質問は、カナンの地を偵察するためのスパイ派遣を考案したのは、誰だったのかという疑問だ。もしそれが神のイニシアティブだったとしたら、なぜ神はそうされたのだろうか?スパイが失敗することを神はご存じだった。そしてその結果は、最悪の場合は出来たばかりの国を滅ぼすことにもなりかねなかった。間違いなく失敗するであろう任務にスパイを送る― この神の命令には一体どんな意味があったのか?
スパイ/偵察者たちの罪により、イスラエルは本来の二年半の旅ではなく、全世代が死にたえるまでの40年間、砂漠をさまようことになった。
そして、スパイを送るという考えが神から出たものでないとしたら、一体誰の考えだったのか?もしかすると部族の指導者たちが主導権を取り、リーダーシップと責任を引き受けたのだろう。約束の土地を攻め取るための戦略を準備するうえで、彼らはより多くの知識を必要としていた。
これは現在の戦闘にも共通することだ。イスラエル国防軍の兵士・予備兵は、あらゆる演習の全てが「有利な地点」から始まることを知っている。指揮官や重要な任務を負った人々は、地形と前方にある戦場を理解するため、高台に登る。そしてその場所から他の兵士・部隊に情報を渡す。この知識があるかないかで、兵士の働きには雲泥の差が生まれる。
もしそうならばモーセは、約束の地の良さを民が知り・味わうために指導者を送り、彼らが乳と蜜の流れる地の『土産話』を持って帰ってくる、という考えだったのではないか。これらのスパイたちが民の間に、切望する祖国・約束の地を受け継ぐという希望・期待の種を植え、それにより人々の士気が高揚する― おそらく、そう願っていた。
自分の目でその土地を見れば、他の部分も想像しやすく、リアリティーが出てくる。
スパイ派遣が誰の発案・イニシアティブだったのかという問題についての私の考えは、指導者たちの提案と励ましを受けた民たちが決めたのだと思う。目的はもちろん、約束の地へ入る詳細な計画を準備するためだ。上記のような戦術的な理由の他には、町々にある道路などのインフラや土地柄や雰囲気などについても知りたかったはずだ。
人々から約束の地とはどんな場所か、偵察したい/して欲しいという要求を繰り返し受けたモーセは、それを神に聞くことにしたと考えるのが自然だろう。そして神はそれを受け、モーセに答えたのだと思う。
主はモーセに告げられた。
「人々を遣わして、わたしがイスラエルの子らに与えようとしているカナンの地を偵察させよ。父祖の部族ごとに一人ずつ、族長を遣わさなければならない。」
ここで聖書解釈に触れてみよう。
ある程度正当なことではあるだが、派遣のイニシアティブは神であると明確に述べている聖句を連想する読者も、居るだろう。たとえば、民数記 13 章には次のように書かれている。
1節: 主はモーセに告げられた。
3節:モーセは、主の命により、パランの荒野から彼らを遣わした。
これは、私たちみなが遭遇する問題の好例だ。私たちはある一節や一段落、または一章のみを読んで解釈し、神のみ言葉(聖書)全体像を忘れる傾向がある。私たちはよく一節・一段落だけを引用し、それのみに基づき教えや神学を丸々作ったりする。
しかし創世記から黙示録までを貫く聖書の全体全体像を読み、それを大前提とする必要がある。そして新約聖書を読むことは聖書全体に光を当て、私たちの理解をさらに深めてくれるので本当に非常に重要であり、祝福だ。
例えばヘブル人への手紙3章では詩篇96篇が引用されており、スパイの箇所への解釈が示されている。ここで新約聖書は心をかたくなにせず、荒野のスパイの場合のように信仰の欠如によってつまずいたり罪を犯したりしないよう、日々互いに励まし合うようにと教えている。
「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように」と言われているとおりです。
では、聞いていながら反抗したのは、だれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た、すべての者たちではありませんか。神が四十年の間、憤っておられたのは、だれに対してですか。罪を犯して、荒野に屍をさらした者たちに対してではありませんか。
また、神がご自分の安息に入らせないと誓われたのは、だれに対してですか。ほかでもない、従わなかった者たちに対してではありませんか。
新約聖書は、出エジプトの第1世代が約束の地に入れなかったのは、彼らが信仰を失い自分たちにその能力があると信じなかったからだと、明らかにしている。
私たちは神のみ言葉の半分を完全に無視して、断片的な節半分や段落半分のみに信仰の基礎を置くことがないよう、注意しなければならない。
信仰義認について
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一例として、キリスト教信仰の基礎とも言えるーつを見てみよう。
人は信仰だけによって神の目に義とみなされるという、信仰義認だ。この革命的な考えは、1520年にマルティン・ルターにより最も重要な神学の1つとなった。この神学は、預言者ハバククの次の一節に基づいている。
しかし、正しい人はその信仰によって生きる。
この聖句をパウロは、ローマ人への手紙の冒頭でも引用している。ルターはここを基に、私たちの行為に関係なく信仰のみにより救いに達すると主張している。その時から今日に至るまで、私たちは信仰と行為を二元論的に捉えた「神学の戦争」を目撃している。この議論はメシアニック・ジューの世界にも及んでおり、意見は明らかに分かれている。
預言者ハバククのこの言葉と、ルターの主張にはかなりの違いがあることに言及する必要がある。ハバククのこの言葉は神から与えられた答えであり、イスラエルの民はバビロンの民よりも正しいため「正しい人=イスラエルは生きる」と語っているのだ。
ルターの解釈に最も近いユダヤ的文書は、ルターの 1300 年前に書かれたものだ(Tractate Makkot 23-24)。このタルムードの注釈には次のような説明がある。
「たとえ信仰が彼の守っている唯一の戒めだったとしても、彼は依然としてイスラエルの一部だ。
この信仰によって彼は生き、残りの613の戒めを守るようになる。」
したがってこの言葉は、ルターではなく反対の方向の内容を述べている。信仰は戒めと善行という行いに満ちた人生への第一歩である、と。
このパラシャとハフタラ(対応する預言書)には共通して、ヌンの子ヨシュアという英雄がいる。パラシャではスパイの一人、そしてハフタラではイスラエルのリーダーとなっており、スパイを送り出す立場になっている。
ヨシュア記 2 章では、スパイたちが城壁の上にあったラハブの家に到着する。
ここは衛兵の習慣や交替、さらにはエリコの町に出入りする道を観察するのには理想的な場所だった。最終的にスパイが侵入したことが分かるが、ラハブは彼らを救った。新約聖書はこの物語を使い、信仰だけでは十分ではなく、その後の行ないも大切で重要だと教えている。
人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。
同じように遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したので、その行いによって義と認められたではありませんか。
からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。
記憶し、行う
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父親の腰からは、ツィツィート(房)が見える。
パラシャの最後には、ツィツィートと呼ばれる男性が身に着ける、房に付いて取り上げられている。
その房はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである。
このようにトーラーと新約聖書は私たちに、行い守るだけでなく『記憶』するようにも命じている。私たちは神のいつくしみ・約束・救いを享受するだけでなく、記憶するべきだ。私たちはメシア・イェシュア(イエス・キリスト)と彼の働き、私たちにされたことも、ユダヤ人がツィツィートを肌身離さないように、記憶し忘れてはならない。
そしてここでも思い出す・記憶することの背後にある目的は、『行動に移す』ことなのだ。
ここで私たちは信仰と行為に関する議論はほとんどが机上のものであることを、はっきりと強調する必要がある。メシアを信じる者として私たちは実生活の中で、この議論に対する立場に関係なく、新約聖書とイェシュアが示す信仰者としての姿は明白だ。「信仰のみ」か「行ないという信仰」のどちらかに同意するかにかかわらず、私たちの信仰は私たちがどのように人生を生きるかを通して、イェシュアの光が私たちを通して輝くのだ。
この偉大な力こそ、イェシュアと新約聖書のメッセージだ。自己中心てきな心の代わりに、主であるメシア・イェシュアを置くのだ。
スパイを送ったモーセの意図
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土地を偵察するためのスパイを派遣したのは誰の発案だったか、という問題に戻ろう。それは恐らく人々のイニシアティブだということを語った。組織的に前進・行軍するための地図を作成するため、スパイを送るようモーセに打診した、と。私たちはこれを、申命記冒頭で学ぶことになる。
申命記は荒野での出来事を順序だてて説明しており、より広い全体像を理解することができる。
「見よ、あなたの神、主はこの地をあなたの手に渡してくださった。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」
すると、あなたがたはみな私のもとに近寄って来て言った。
「私たちより先に人を遣わし、私たちのためにその地を探らせよう。そして、私たちが上って行く道や入って行く町々について、報告を持ち帰らせよう。」
私にはこのことが良いことと思われたので、私はあなたがたの中から各部族ごとに一人ずつ、十二人を選んだ。
ここ申命記では、スパイ派遣は民による主導だった可能性が高いという、追加情報が記されている。 モーセが神に尋ねると、神はもし望むなら「スパイを送れ」と答えた。イスラエルが約束の地、イスラエルの地に非常に近かったことは申命記から明らかだ。これはモーセが国民の士気を高めたかったことを示しており、次のように言って彼らを激励している―
上れ。占領せよ。恐れてはならない。おののいてはならない!
ヘブル人への手紙3章には、民には信仰が欠けていたと記されている。
それこそ、民とその指導者がスパイ派遣の要請のためモーセのもとにやって来た理由だ。彼らはモーセと神に対する信仰・信頼に欠けていたため、どのように進むのかを知りたがった。彼らはそれを、自分の目で見たかったのだ。
のちの私たちは、もちろんその結果を知っている。スパイたちは約束の地に対し、否定的で悲観的な報告をした。モーセが「上れ。占領せよ。恐れてはならない。」と望んだように、励ましと希望・力に満ちた報告の代わりに、彼らは人々に恐怖を与え、パニックに陥らせた。各部族を指導する立場だったスパイたちが、反乱を起こしたのだ。そして人々は自身の部族の指導者たちに従い、恐れから「約束の地に入りたくない」と言い反乱に参加した。そして反対するカレブとヨシュアを、石打ちにしようとする。
すると突然民の前で、神の栄光が幕屋の入り口に現れ、窮地を救った。
赦しとは
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これに対する神の反応は厳しかった。聖書には、神が指導者に対する反逆を憎むと書かれている。ミリアム・アロンがモーセに敵対したときにもこのことを見たが、来週のパラシャでもコラの事件で再びそれを見ることになる。トーラー・新約聖書のどちらも、指導者と支配体制に敬意を表すことを求めている。
あなたは人々に注意を与えて、その人々が、支配者たちと権威者たちに服し、従い、すべての良いわざを進んでする者となるようにしなさい。
他の多くの御言葉どおりパウロは、(もちろん正しい姿でなければならないが)指導・支配体制は重要であり、無政府状態が危険であると語っている。
荒野でのスパイによる事件を受け、神はモーセにイスラエルの民から離れよと命じている。モーセから新しい民を、ゼロから作るためだ。しかしモーセは与えられた賜物を用い、後にヨム・キプール(大贖罪日)の祈りの一部分となった、神との対話を始めた。
「この民をエジプトから今に至るまで耐え忍んでくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」
主は言われた。
「あなたのことばどおりに、わたしは赦す。」
こうして私たちは、神からの究極の赦しを受けている。しかしそれにもかかわらず、その直後に失望が続くのだ。
しかし、わたしが生きていて、主の栄光が全地に満ちている以上、わたしの栄光と、わたしがエジプトとこの荒野で行ったしるしとを見ながら、十度もこのようにわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、だれ一人、わたしが彼らの父祖たちに誓った地を見ることはない。わたしを侮った者たちは、だれ一人、それを見ることはない。
神は赦されるが、神の憐みは真の悲しみのあとに来る。
神は今生きている世代は約束の地に入ることなく荒野で死ぬ、と発表した。
これはどういう赦しだろうか?
赦しに関するこの議論は、非常に重要な教訓を教えている。赦されたからと言って、全てがリセット・白紙状態になることはないのだ。それはなぜか?なぜなら、赦しは到達点ではなく過程だからだ。赦しを得るということは、壊れた神の信頼の再構築という道のりのスタート地点だからだ。
メシアニック・ジューとしての私の意見では、「ところで、イェシュアは私の罪を赦した」などと言ってイェシュアを軽視すべきではない。確かにイェシュアは、私たちの罪を赦してくださる。しかしその見返りとして神は、私たちが同じ古い罪に再び戻るのではなく、自分の生活を本当の意味で変えることを要求している。
そんなイェシュアが私たちの罪を赦したと宣言は、『ところで』と何か副次的なもののように語るものではないのだ。
これはメシアの信仰の本質だ。
イェシュアは私たちに新しい始まり・機会を与え、神は不可能を可能にする。しかし、信仰の欠如によって荒野の世代のように罪を繰り返さないようにするかどうかは、私たち次第だ。
重要なのは、こうあるように信仰だ―
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。
日本の皆さまのうえに、豊かな週末があるように。
シャバット・シャローム!
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