原稿用紙5枚の掌編小説「受け継ぐ人」
祖母が寝たきりになって三カ月がたった。かかりつけの先生が週に一度は往診に来てくれるが、祖母に残された時間はもう長くはないらしい。そのあいだ、食事や着替えやオムツの取り換えまで、祖母の世話はすべて母の仕事だった。父はこういうことは女の人の方が得意だからと、横目で見ているだけでまるで母に任せきりだ。私は口には出さないけれど、そういう父はずるいと思った。私は少しでも役に立ちたくて母を手伝おうとするのだが、下の世話なんてとてもできないし、ご飯を食べさせるのも下手で、いつも祖母に文句を言われる。
「もっとゆっくり食べさせておくれよ。そんなにつめこんだら喉につまっちまうだろう」
祖母は私が風邪をひくと、心配のあまり自分も熱を出して寝込んでしまうような人だったが、体が不自由になってからはとても我がままになり、私にも辛く当たるようになった。一生懸命にやっているつもりでも、私の不器用さが祖母には気に入らないらしい。
昼でも夜でも祖母はやってほしいことがあると、大声で母を呼ぶ。
「のぶえーっ、のぶえーっ」
夜中に寝ているときでさえ、母は起き出して祖母の面倒を見る。
「どうしたの、おばあちゃん」
母はけして声を荒げるようなことはしない。
「まだ夜は明けないのかい」
と祖母が訊く。
「まだ夜中の3時。夜が明けるまでまだ間があるから、もう少し寝ていてね」
「これから先が眠れないんだよ。あたしが眠るまで手を握っていておくれよ」
祖母の口調はまるで駄々っ子のようだ。
「分かった。握ってるよ」
そう言って母が祖母の手を両手で包んで握ると、やがて祖母は安心しきったように静かな寝息を立てて眠り込む。
こんなことが毎晩続いた。私はなぜ母はこんなにも祖母に優しくなれるのか不思議でならない。まえに母からこんな話を聞いたことがある。
「夕方になるとね、悲しくていつも涙が出たもんだよ。里美が夜泣きすると、おばあちゃんがうるさいって叱るの。また今晩も叱られるのかと思うと、悲しくてね・・・」
私のせいで母に辛い思いをさせてしまったのは申し訳ないと思う。それにしてもそんなことで母を責めるなんて、祖母は意地悪すぎる。私は祖母がちょっとだけ憎らしくなった。母は祖母に対してそんな感情を持ったことはないのだろうか。私がいちどそのことを尋ねたとき、母はこう答えた。
「あなたは母親なんだからしっかりしなさいって、おばあちゃんはそう言ってくれてたんだよ」
その言葉を聞いて、母はきっと強い優しさを持った人なんだと私は思った。
それはひどく暑い日の午後だった。私が学校から帰ると、母がお風呂にお湯を張りながら言った。
「これからおばあちゃんをお風呂に入れてあげるからね。里美も手伝うんだよ」
「お母さん本気で言ってるの? おばあちゃんは自分で立てないんだよ」
「二人で力を合わせればなんとかなるよ」
母はそう言って、てきぱきと作業を始めた。ベッドの祖母を抱きかかえて浴室まで運び、浴槽の脇に敷いたバスタオルの上に寝かせ、衣類を脱がせた。自分も服を脱ぐと、もういちど祖母を両腕で抱き上げた。
「里美は足を持って」
私は祖母の痩せ細った両足を抱える。母は慎重に浴槽をまたぎ、祖母を抱いたままゆっくりと浴槽に身を沈めた。母のどこにこんな力があるのか、私は信じられなかった。
「どう、おばあちゃん。気持ちいい?」
母が訊くと、祖母は眼を閉じて答えた。
「気持ちいいよ。まさか本当にお風呂に入れてもらえるなんて――」
その姿はまるで赤ん坊が母親に身を委ねているようだ。祖母の萎びた二つの乳房がお風呂のお湯に揺れている。
「ありがたいねえ――、こんなことまでしてもらって――。ありがたくて、もうのぶえーっなんて呼べないよ――。なんて呼べばいいかね」
「それなら、お母さん――て、呼んだら?」
と母が言う。
「そうだね――。これからはそう呼ばせてもらうかね――。お母さん」
それから祖母は、母を「お母さん」と呼ぶようになった。そのときの二人のやり取りを見ながら、私はいまこの瞬間に、祖母から母へ大切な何かが手渡されたように感じた。祖母がずっと大事に守り続けてきた何か――。
私もいつかその何かを母から受け取る日がくるのだろうか。そのときは、その大切なものを正しく、しっかりと受け継ぐ人でありたいと思った。
――完
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
私がまだ学生で、寝たきりになった祖母を家族で介護していた当時の様子をもとに書きました。
今のような介護保険もなく、介護の環境も乏しい時代でした。
作中に出てくる母と祖母との会話は実際にあったものです。
そのやりとりを見ながら、美しい光景だな・・と思ったのを覚えています。
今回、主人公は女性ですが、ごく自然にそうなりました。
理由はうまく説明できませんが・・・。
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