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原稿用紙5枚の掌編小説「アイツ」

 微かに流れてくる外の匂いが、アイツの鼻をくすぐった。その匂いに誘われてアイツはソファーから起き出すと、廊下を歩き、隣の部屋を覗いた。窓がわずかに開いているのが見えた。そこはご主人と奥さんの部屋だった。どちらかが閉め忘れたのだろう。アイツが外に出ないよう、いつも注意を怠らない夫婦にしては珍しいことだ。
 
 アイツは窓の隙間に顔をねじ込み、体の厚みでガラス窓を押し開け、ベランダに飛び出した。穏やかに吹いている風の感触と眩しいほどの太陽の光が心地よかった。アイツは開放感をいっぱいに感じながら体を反り返して思い切り伸びをした。

 そのときだ。一羽のカラスがベランダの前をバサバサと羽音を立てて横切った。アイツの中で眠っていた野生が瞬時に目を覚ました。カラスが旋回して戻ってくるのを見計らって素早くベランダの手すりに飛び乗ると、その勢いのままカラスめがけてアイツはジャンプした。二本の前足をいっぱいに伸ばし、みごとにカラスを捕らえる―――はずだった。カラスは寸でのところで身をよじり、アイツの爪を逃れた。カラスの姿がアイツの視界から消えた。かわりにアイツの目に映ったのは、遥か眼下の地上だった。

 ―――‼

 アイツが飼い主の夫婦と暮らすマンションは地上五階にあった。もちろんそんなことをアイツが知る由もなかった。アイツは本能的に着地の姿勢をとった。四本の足を思い切り伸ばし、ムササビのように体全体に風圧を受ける姿勢だ。しかしその行為がほとんど無意味に近いことをアイツはすぐに悟った。

 地上五階は尋常ではない高さで、転落の衝撃に自分の体が耐えられるとは思えなかった。アイツは最悪の事態を覚悟した。その瞬間古い記憶がアイツの脳裏に蘇った。

 それはアイツが兄妹たちと野良猫として生きていたころのこと。暮らしの場は町の一角にあるアーケード街だった。雨風はしのげたが、この街の人間たちは野良猫どもを目の敵にした。あるときは箒を持って追い回され、またあるときはバケツの水をぶっかけられた。いつも空腹だった。飲食店から捨てられた生ごみを必死に漁った。一片の肉を兄妹同士で奪い合った。

 そんな兄弟たちも一匹ずつ姿が見えなくなった。死んでしまった者もいる。ねぐらを変えたものもいた。そしてアイツだけが残された。深い孤独の中でアイツは生きた。一日を生きることで精いっぱいだった。

 冬のある日、アーケード街の天井の破れ目から差し込むわずかな日差しの中でウトウトしているアイツの前に、一組の夫婦らしき男女が現われた。今アイツが一緒に暮らす奥さんとご主人だ。奥さんがアイツを抱き上げた。人間に恐怖心をもっていたアイツが抵抗しなかったのは、奥さんの腕と胸の柔らかで温かい感触がアイツにある懐かしさを感じさせたからだ。

 それはアイツがまだ母親の乳をすすっていたころの記憶を思い出させた。傍らのご主人がアイツの頭を撫でながら顔を近づけた。ご主人の眼に自分の顔が映っているのが見えた。その眼を見つめているうちに、アイツは彼らにこの身を委ねてもいいという心もちになった。夫婦は短い会話を交わした後で、ご主人がアイツに語りかけた。

――おまえ、うちの子になるかい。

 強烈な衝撃が全身を駆け抜けた。体がバラバラになるほどの衝撃だった。その瞬間にアイツの意識は真っ暗闇の中に落ち込んでいった。

 どれだけの時間が経ったのだろう。いつからか降り出した雨の冷たさに、アイツは意識を取り戻した。辺りは暗くなりかけている。激しい痛みを覚えた。どこがどう痛いのかは分からない。体のどこもかしこも痛かった。血反吐を吐きながら呻き声をあげた。

――俺はこのまま死ぬのだろうか。

 遠のきかけた意識が、全身の痛みで強引に引き戻される。その繰り返しの中でアイツは考えた。あの夫婦は自分のどこが気に入って共に暮らす家族の一員にしてくれたのだろう。自分の姿をまじまじと見たことはないが、薄汚い灰色の野良猫に過ぎなかったのに。

 アイツはもう一度あの温もりの中に帰りたいと思った。死ぬのならあの夫婦の温もりに包まれて死にたいと思った。アイツは声を振り絞って鳴いた。

――ニャーゴ。

 今アイツにできることは鳴くことだけだった。この声が夫婦に届きますように。その間、意識は何度も遠のいた。雨は激しさを増し、容赦なくアイツの体に冷たい粒を打ちつけた。

 その雨音の彼方に、アイツは自分の名を呼ぶ声を聴いた。幻かと思ったが、その声は少しずつ鮮明になってくる。夫婦の声だった。やがて暗闇の向こうに、懐中電灯の朧げな光が左右に揺れながら近づいてくるのが見えた。

                           ――完。

 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 我が家には二匹の猫がいます。布団の上で気持ちよさそうに昼寝をしている猫たちを眺めながら、こいつら何を考えているのかな・・なんてことを想像しているうちに、こんな物語が出来上がりました。
 犬ほど人に忠実でもなく、プライドが高く、自己本位で甘ったれな猫が私はとても好きです。

画像はハウズ店主@note様のイラストをお借りしました

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