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原稿用紙5枚の掌編小説「桜並木」
一月の末、母を看取りました。
本人の希望通り、自宅での看取りでした。
仕事以外の時間は家族と協力して母の介護に費やす生活が数カ月続いたため、その間は長い文章を書く余裕がなく、投稿は詩が中心でした。
改善の見込みのない病でしたが、母がまだ元気だったころに僅かな希望を託して描いた作品です。
先に投稿した「もう一度」も同様の作品です。
令和4年9月25日の上毛新聞「上毛文芸」欄に掲載されました。
新聞の切り抜きを母の棺に入れました。
風に舞った花びらが、母の膝掛けの上に落ちた。母はそれを指先でつまむと、掌にのせてふっと吹いた。花びらはふたたび風に舞い、桜並木の下を流れる川のせせらぎに吸い込まれていった。
「グループホームの生活はどう? 友達はできた?」
母の乗った車いすを押しながら私は訊いた。
「貴志がちっとも会いに来てくれないから、寂しくって仕方ないわよ」
母はすねたように言った。
「申し訳ないと思ってるよ。仕事の都合もあってね・・・」
私が答えると、母はフフフと笑い、言った。
「冗談よ。けっこう楽しくやってるわよ。イケメンの職員さんもいるしね」
母が今のグループホームに入所して半年が経った。なんとか時間を作って面会には来ているが、月に一度が精いっぱいだった。勤務先の都合で、私は母の生活する施設とはだいぶ遠方の町にいる。面会に来るにはそれこそ一日をまるまる費やすほどの距離があった。会いに来るたびに母が小さくしぼんでいくように見えるのは、私が母に寂しい思いをさせている罪の意識のせいだろうか。
「一緒に連れてくればよかったのに」
母は顔を半分振り向かせて言った。
「誰のこと」と私は訊いた。
「良美ちゃんよ。こんなにいいお天気なのに、お留守番じゃあかわいそうじゃない」
母の屈託のない言い方は私に軽いショックを与えたが、私はあえて陽気さを装って応えた。
「母さん、良美とはとっくに別れたんだよ。俺は今や花の独身なんだぜ」
「うそ。なんでそんな大事なこと私に言わないのよ。女房に逃げられるなんて、情けないねえ」
と母は私を咎めるように言った。私はやれやれと呟いた。逃げられたわけではないが、妻と別れたのはもう三年も前のことなのだ。
桜見物の人出は今がピークの時間帯なのだろう。桜並木に添った遊歩道は、絶え間なく人の帯が続いていた。
「きれいだね。やっぱり日本人は桜だよね」
母は満開の桜を見上げながら感嘆の声を上げた。その言葉が不意に途切れると、母は顔をうつむかせて黙り込んだ。
「どうしたの、少し疲れたかい」
尋ねる私に母は低い声で言った。
「貴志にはすまないことをしたね」
「すまないことって・・・なに?」
さっきまで陽気だった母の突然の急変に、私は戸惑いつつ訊いた。
「貴志が学生のころ言ったよね、自分は役者になりたいって。それなのに、お父さんも私も大反対して・・・」
「そんな昔のことはもういいよ。おかげで俺はなんとかまともに生きてこれたんだから」
「母さんすごく後悔してるの。なぜ貴志に好きなことをさせてやらなかったのかって・・・。貴志が本当にやりたいことがあるなら、もっと応援してあげればよかったって・・・。私はいい母親じゃなかったよね」
「俺は父さんも母さんも恨んだりしてないよ。だいたい俺の才能なんてたかが知れてたんだから。役者になりたいなんて、若気の至りさ」
学生時代、私は演劇にのめり込み、舞台役者として生きてゆくことを本気で考えていた。今から思えば、青くさい浅はかな考えだったと思う。そして夢は夢として諦めたのはあくまで自分の意志であり、両親に反対されたからではない。それなのに、私が夢を捨てたのは自分たちのせいだと母は思い込んでいるらしい。
母はなぜこんな昔の話を言い出したのだろう。今の母の心に去来するのは過ぎた日々の悔恨なのだろうか。
そこへ「こんにちは」と声がして、私は顔を上げた。我々と同世代ほどの母娘と思しき二人が、手をつないで私たちの横をすれ違おうとしていた。
「こんにちは、いいお天気ですね」と母は声を返した。私も母娘に小さく会釈した。そのささやかなやりとりで母の心にまた陽が射したのだろうか、母は楽しい遊びを思いついた娘のような口調で言った。
「ねえねえ、こんど温泉にいこうよ。昔、お父さんが元気な頃に行ったじゃない。なんて温泉だったかなあ、あの、ほら・・・」
思い出せずにいる母に私は助け船を出した。
「法師温泉だろう」
「そうそう、法師。行こうよ、良美ちゃんも連れて家族三人で。ねッ」
「だから良美は・・・」と私は言いかけてやめた。
母の記憶は少しずつ失われていくのだろう。ならばせめて、幸せな記憶だけは消えないでいてほしい。
「ああ、きっと行こう」
私はそう答えて、祈るような気持ちで母の車いすを押した。
―――完。
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