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原稿用紙5枚の掌編小説「横断歩道で」

 信号待ちをする車のフロントガラス越しに、一人の男が横断歩道を渡る姿が見えた。工場務めのような色褪せた紺の制服を着て、襟元は汗で濡れている。小ぶりのバッグを襷がけに背負った肩が歩くたびに傾くのは、足が不自由なのだろうか。通行人が足早に歩く中で、彼だけがスローモーションに見えるほど、緩慢な歩き方をしている。男は横断歩道の中ほどで立ち止まると、正面から照りつける西陽を眩しそうに見上げ、額から落ちる汗を手の甲で拭った。男の顔が露に見えたとき、僕はかすれた声で呟いていた。

――K君だ。

 その瞬間、錆びた釘のように、痛みを伴って僕の心に打ちつけられていたある言葉が甦った。

――君だけは、そんな人じゃないと信じていたのに。

 僕とK君は中学校の同級生だった。中学二年の時に同じクラスとなり、映画をきっかけに仲良くなった。当時、僕たちは共通の好きなアメリカの映画女優がいて、顔を合わせるといつもその話で盛り上がった。K君はその他にも様々な役者や映画を知っていた。そして映画は監督の腕次第で良くも悪くもなることを教えてくれた。彼の映画の知識はアメリカ映画だけでなく、ヨーロッパやアジアにまでも及んだ。僕は映画から世界の広さを知った。それをレクチャーしてくれたのはまさにK君だった。

 K君は幼い頃に遭遇した交通事故が原因で、左足に障害を負っていた。走ることなままならなかった。あの頃、K君には僕以外に親しい友人はいなかった思う。なにをするにしても障害のせいで足手まといになるK君とのつき合いを、他のクラスメイトたちは敬遠していた。なかには陰で屈辱的な言葉を口にする奴もいて、それはK君の耳にも入っていたはずだが、K君は気がつかないふりをしていた。

 僕はといえば、K君の負ったハンディなど、気にもしていなかった。たまたま仲良くなった友人が障害を持った人だったということだ――。そのときはそう思っていた。しかしその感情はうわべだけのものに過ぎないことを僕は知ることになる。

 それは公開を待ちに待った映画の封切りの日のこと。僕とK君は映画館のある大きな町の駅に降り立った。封切りの日の、しかも初回の上映を観るのだと以前から決めていた。映画館へ向かうべく、僕たちは歩き出した。上映開始の時間に間に合うかどうか、微妙なところだった。本当は走りたいのだが、K君のことを考えるとそうもいかない。僕は歩いていても遅れがちになるK君を振り向きながら声をかけた。

「K 君、早く早く。急がないと間に合わないよ」

 K君は無言でうなづき、足を引きずりながら懸命に僕に追いつこうとしている。やがて焦る気持ちが僕を足早にし、そして小走りにしていた。そのときだ、背後で「あっ!」と声がした。振り返ると、K君が前のめりに転んでいた。その瞬間、僕の口から出た言葉は、自分でも信じられない言葉だった。

「ないやってんだよ、のろま!」

 ゆっくりと立ち上がったK君の唇から血がしたたり落ちていた。そしてK君は眼を伏せて、震える声で言った。

「君だけは、そんな人じゃないって信じていたのに――」

 K 君のその言葉を聞いたとき、僕は自分の本性を見た気がした。そして、K君がこれまで耐えてきたものの重さを、その言葉から感じた。そうなのだ、僕は良い友人を装っていたが、本当は陰で屈辱的な言葉を吐くクラスメイトたちと変わらない、卑怯な人間なのだ。

 上映時間にはなんとか間にあったが、映画の内容など全く頭に入らなかった。本当の自分に向き合うことに、ただ僕は慄いていた。

 映画館を出たあとで、僕はK君に「さっきはゴメン」と謝った。それ以上は言葉にできなった。K君は「いいんだよ、気にしてないから」と言ってくれたが、僕は取り返しのつかないことをしてしまった思いで、彼の眼を見ることができなかった。

 間もなく僕らは三年生となり、別々のクラスになった。それ以降、K君とはなんとなく疎遠になり、一緒に映画を観に行くこともなくなった。正直に言えば、僕の方でK君を遠ざけていたのだ。あの時のあの言葉を挽回すべく、K君から本当に信頼される友人になる自信も勇気も僕にはなかった。やがて僕たちは別々の高校へ進学し、彼との付き合いは絶えた。

 あれから十数年、僕はK君の消息すら知らなかった。その間、彼はどんな思いで生きてきたのだろう。今、横断歩道を渡ろうとするK 君が僕に気づいたら、僕はどんな顔で応えたらいいのだろう。

 そんな僕の思いがK君に届くはずもなく、彼は点滅する信号機に急かされるように、人混みの中に消えていった。

                  ――完――


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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