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繰り返し再生する物語        ~小川哲『嘘と正典』~

再読される物語たち



自分の中には再読を繰り返している短編集がある。

大江健三郎の「見るまえに跳べ」と藤原伊織の「ダックスフントのワープ」である。

この2冊。物語の形やその内容に共通点があるわけではない。

ただ、どちらの作品も収められた小片の隅々まで作者の機微が張り巡らされ、のせている物語が漂わせるものはもの悲しくも人間の生の内側を開いている。

その纏った人生の苦みのようなものは、生活の些事の向こう側に常にある。

時に見失いがちなそれを思い出すために、私はこれらを再読しなくてはならないのかもしれない。
 
 
 
今回読んだ小川哲「嘘と正典」は間違いなくこの2冊に新たに加わる1冊だ。
物語の完成度は極めて高く、それに運ばれ、私の中で再生されるものは、私にとってとても根幹に関わるものだった。

だから、きっと、また、再読する日が来ることは間違いない。
 
 
 

1.魔術師


トークショーで小川氏はこの作品を表題作に検討していたと述べていた。
この作品とCloseの「嘘と正典」はいずれも時間と何かに生を賭する人間の狂気が描かれる点で相似な関係にある。
しかし、物語としてある程度閉じて神話化している「嘘と正典」と比較し、「魔術師」は構造的にシンプルだ。
そしてシンプル故に、直接人間を揺さぶっていくのだが、
一点、終わりには余白が落とされていた。

余白。
それは読者ごとの様々な物語の派生を可能にしている。
勝手な想像だが、
そうした広がりという面があるからこそ、本作は表題作として選ばれたのかも知れない。

閑話休題。

この作品は父と子の物語をもうひとりの子が外から見るという中で、
発想の段階で狂気が混じったマジックが展開される。

人生の破綻すら織り込んだマジック。

そしてそのシステムを知りながら再現する娘。
個人的にはこの娘の選択が本当に考えても考えても止まらない。
父の無軌道な人生に反目していたが、その無軌道すらマジックに捧げられた供物だと気づいた娘。
結局、自分の中にすべてを捧げて生きる魔術に魅せられてしまったのだろうか。
また年を重ねて読んだら新たな面が見えてきそう。そんな予感もする。

2.ひとすじの光


これまた父と子の話であり、血脈の話だ。

血統で紡がれる競走馬の世界は走る彼らの思いを余所に、人間の勝手な物語化の対象となっている。

“僕”も父も、世界と良く接続されているスペシャルウィークから遡りはじめ、フロリースカップに行き着く。
そして、フロリースカップから、二人につらなる昌次郎との血脈と交差する。

血脈、血統。

結局は持つ遺伝情報の近さを示しているだけであり、
そこにかけがえのないリンクを見出すのは幻想のようにも思える。
事実、生存する人類は遡れば、何処かで他人とされる誰かの血脈と交差する。
そこにかけがえのなさはない。

私たちは皆それぞれのフロリースカップでつながっている。

しかし、テンペストがサラブレッドとしての成功とはほど遠い一方で、スペシャルウィークはその道で大成した馬となっている。

人間も変わりない。

名を残す生を送った誰かと何者にもならず、時間と共に忘れられていく誰かも、それぞれのフロリースカップでつながっている。

“僕”が最後にその血脈に物語を乗せるよう駆け始めるのはそうした誰かと誰かが同じ生きた人間だということの再発見ではないだろうか。

私たちは血脈のもたらす偶然性、運命性の魔力に魅せられて、そこに物語を乗せてしまうのだろう。
物語は幻だけれど、それが人間にとっていかに大切か。
明かされる関係性のミステリーとともに、その大切さが駆けるように描かれていたように思う。

3.時の扉


これはかなり癖の強い作品だった。
正直、読み込み切れていない。

読み切れない中でも、
千一夜物語的構造の中、徐々にベールを捲られる真実は歴史のある側面を映しているように解釈した。
そして晒された歴史の真実が人間的グロテスクの塊にしか見えない不穏さ。
ゾクゾクする寒気がこの一編を通じて流れている。

しかし、
双子のエピソードなど消化仕切れないものが個人的に多かった。

時の扉自体も現在を抹消するとはいかなることなんだろう?

現在のために過去を補正しようとするのに、肝心の現在を失ってしまう。
そこに何が残るんだろうか?

まだまだ読み込めていない。

そもそも語られる失い続けた男とは…
うーん。固有名を何度も何度も世界に問いかけてしまったが、
全然しっくりくる答えは出てこない。
どこまでが物語で、どこまでが歴史なんだろう?
自分も時の扉に何かを抹消されてしまったのかもしれない。

考え尽くせばまだまだ真実がこぼれ落ちてきそうだ。

4.ムジカ・ムンダーナ


一転して非常に読みやすい作品。Musicのように流れ込んでくる。

構図もわかりやすく、この物語も父と子の物語であり、父は狂気を宿している。

ただ、通常は父と子の物語に振れていきそうなところ、真逆に物語は振られて閉じられる。
“ダイガのために”テープに付されたその言葉の意味がはっきりすると、より父の狂気が浮かび上がってくる。

そうか。

ダイガはダイガのためにダイガだったのか…

私たちは父と子、その偶然の繋がりを、
かけがえのない繋がりとして物語でコーティングしがちだ。

だが、どうだろう。
現実の父と子は本当にそういう存在か?

5.最後の不良


意外にも最もポップでとっつきやすい作品ではないか。
皮肉を効かせていつつも、それは優しい皮肉で、他の作品のような残酷な現実的な絶望はない。

桃、栗、柿。
桃栗3年、柿8年。

Eraserが消すのはPenの軌跡。

かなり力を抜いて書かれたのかもしれない。

それゆえにシンプルなメッセージが突き刺さってくる。
流行をなくす。
波がなければ自分の歩みが左右されることもない。
じゃあ、自分の歩みはどこから生まれる?
結局投じられた世界との関係性で、自分の歩みが生まれるんじゃないだろうか。
じゃあ自分の歩みって本当に自分の歩みなんだろうか?
自分の外に作られたものじゃないか?
桃山のように、最後の不良として、私たちはそれをぶち壊して私になれるんだろうか。

6.嘘と正典


実に完成度の高い作品。
揺れ動く物語の行方にハラハラしながら浸り、最後の展開で物語がきれいに閉じられる。時間をこんなにも縦横無尽に前後しながら、それらの配置は完璧で計算し尽くされており、本当に怖くなる。

良く出来たミステリー長編を読み切ったような達成感。

衝撃的な事実への興奮を、共産主義という巨大な幻との敵対にスライドさせていくホワイトの何処か滑稽な様。

それと対照的に何処か泰然とした雰囲気を湛えるペトロフ。

合理的世界。

人間が象る限り実現しないだろうその世界を求めるペトロフ。

結局その人間性の否定故に、
彼は段々と透明で波立ちのない存在になっていったのではないか。

そんな中、最後によぎる息子の姿は彼の最後の人間性だったのかもしれない。
彼にレッド・ツェッペリンを聴かせてあげたい。
ペトロフがその感情を大切に出来る世界があったらよかったのに。
それがなかったから、ペトロフは合理性に執着し、
破滅へと走り出さなければならなかったのかもしれない。

ああ。本当に人間て何なんだ!

そうつい叫びたくなるほど無慈悲な物語。

怖いし、傷つけられるが、これこそ私たちが向き合うべきものとも思う。

それゆえに実にこの物語は大きく私を変える可能性を孕んでいそうだ。
 
 

変化と再生 


書いていてもまとまりきらない、消化仕切れないものが沢山水面から顔を出してきた。
やっぱり、また、時間を置いて、この作品を再生しなければならない。
私は年を重ねて、変化する。
積み重なった時間は私の何かを削っていくが、
今はない何かを私に載せていく。

変わった私が再生するこの物語はまたきっと違うものを私に落としていくだろう。

そう思うと、まだ、私はこの物語を読み終えていないのかも知れない。

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