no.3 感慨コラージュ
毎日投稿し続けるつもりだったが、数日投稿が遅れてしまった。というのも面倒だった訳では無い。書いてはいたのだ(勿論美味しいコーヒーを淹れてね)が、思考のパラドックスに陥り、文が書けなくなった。文字通り何が何だか分からなくなってきてしまったのだ。従って、いつにもして散文的な文を綴る事にする。ちなみに今はコーヒーではなく、温かい緑茶と金平糖を文の当てにしている。なんだか、日本人っぽいね。
大衆の言う個性という物の正体を懐疑的に思う。誰しも個性を芸術或いは、衣服或いは、仕事或いは人となりetc…を通して、生きながらに表現している。そんな事を聞いた事がある。人は生まれながらに”個性”を持っているというのが時代の認識なのだ。だが、僕は典型化された文化や技術の”融合体系”としか思えないのだ。どんなに優れた芸術家でも誰かに、何かに干渉されたレンズでしか描けないと思う訳だ。それは歳をとるごとに更新され、より一層分厚くなる。そこに個性という生まれながらの産物は含まれるのだろうか?であれば、なぜ芸術家は子供の澄んだ薄いレンズを尊ぶのだろうか。どうも個性は幻想にすぎないと感じる。僕はどこまでも凡人だからわからない。分からないのだ。
皆の言う「共感」とは幻想だ
最近「全肯定」と言うものの存在を知り、心底鳥肌がたった。そう言う特性を持った輩は簡単に共感をする。共感のハードルが凄まじく低いのだ。だが、ここで言う共感とは、ある物を見てそれを形容する言葉が偶然一致したに過ぎない。共感と呼ぶには言葉ばかりな幻想なのだ。”形容する言葉”から生じるプロセスを全く無視した空虚な共感を振り翳す人間には良い加減嫌気がさす。人の弱いところばかりを突かないで欲しいものだ。
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