no.4 デフォルメ語学

この間まで本当に何もしてなかったような僕がなんと九時間もの労働を乗り切った。過酷だが、業務後、ガストで買ったチーズインハンバーグを口一杯に詰め込めば一生働いていけるような気になる。こういう所が今まで何もしてこなかった所以なのだろうなと思った。けど本当に美味しいんだよね。薄暗い部屋で1人で食べるのは寂しいけれど、疲れている上寂しいという自我が、それでも労働しているということに心酔せずには居られない。そういえば、いつも買っているコーヒーの粉が無くてブラジルの何とかっていう凄く長い名前の銘柄に変えてみたのだけど案外悪くない。 どっと疲れてたのかこのあたりで寝てしまった。再開する。

何のけなしに「かわいい」と口にするようになった昨今、日本語という言語の曖昧さを嘆かわしく思う。「かわいい」という言葉が市場に多く回るようになったのは1970年代だと言う。当時はどんな事物にも「かわいい」と形容する若者の語彙力に大人たちは怪訝としていた。直近でも同じことが起きているね。(エモい、キャパい、シャバいetc…)しかし、その世代が社会人となり市場の担い手となるとファッションや、ポップカルチャーと結びつき「かわいい」が内包する言葉の意味はぶくぶくと蓄えられていった。(意味についての概要は真意とは別のところにあるため省く)
日本語にはそう言う節が多々ある。例えば、英語を日本語に翻訳した時と、日本語を英語にした時とで相互の意味に差異が生じると言ったことはないだろうか。分かりやすく言おう。日本語のあらゆる「かわいい」を英語に翻訳する時それは一概に「cute」になるのかといった視点を持って欲しい。
この本質に霧をかけるようなスタンスが日本語の美徳であるのも然り、一方悪点でもある事を自覚する必要がある。

援助交際もとい、パパ活というのもまたこれらの悪点の一端である。意味に対して、ここまで耳障りのいい物にしたてあげた我々の意識は異常である。怖いね。
そもそも女性が体を売ることで対価を得るという文化は戦時中、兵士に対する奉仕というのが起源である。彼女らは慰安婦だとか、娼婦だとか呼ばれていたが、古代から何も変わっていないな。これがもし兵士専用性処理従事職だとかって呼ばれてたら相当に手を出しにくくなるだろう。それほどまでに言葉にかかった霧というのは本質から目を背くための大きな役割を担っている。そういう曖昧さ加減が我々には不可欠となっているのだ。
だが、日本語の美徳とは元来本質を分かった上で抽象化した言葉選びをするコミュニケーションのおいての性質である。現代の若者の言葉はなんだかもぬけの殻のように感じる時がある。それは上品や美徳と言ったものから最も遠いのだ。

なんだかよく分からなくなってきた。前回の投稿で文が書けなくなってきたというのはこういう事だ。結局何が言いたいのか何を落とすのかが段々ズレていって結果何が何やら分からなくなる。こういうことが起こると心底疲れるし、なんだか無力感を感じずには居られない。ちくしょう。だが、このモヤモヤを晴らすためのものが僕にはある。風呂に入ってこよ。


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