no.2 コンテンツを飼う

僕は疲れているのかもしれない。昨日の今日で睡眠時間が少なすぎたからだろう。というのも、昨日の投稿でもあった通り僕はよくコーヒーを飲む。こと昨夜に限って言えばバイト終わりに1杯、食後に1杯、深夜だらだらしている間に2杯、計4杯も飲んでしまっている(1杯あたり250mlなので、合計1L飲んでいるわけだ)。これは異常な量だが、なんだか昨日はそういう気分だったのだ。しかし、僕がコーヒーを愛飲している理由にカフェインの効用といった愚かな要素は存在しない。そもそもそういう観測の元、コーヒーを飲むこと自体素っ頓狂なのだ。あぁ、なんだか誤解されそうだな。コーヒーを淹れてこよ。
話を変えよう。この間、近所を散歩していると小学生の頃よく遊んでいた友達に会った。その友達の家では犬を2匹、大人しい雌のチワワ「ちっち」とわんぱくな黒い雄のトイプードル「レオ」を飼っていて、家に遊びに行った時にはよくかわいがっていたものだ。懐かしいね。だが、チワワのちっちは中学3年の頃に死んだ。それからはレオのみとなり当然散歩してる姿を見つけても1匹きりだった。そんなことを思い出しながら、僕たちは当時の淡い記憶を掘り起こし、談笑していた。(誰しも小学生の時は粋なものだ)
「そういえば、今日はレオを連れていないんだな」
「父さんに郵便物を頼まれてね。多分母さんが散歩してるんじゃないかな」
そうか、恐らく定年を迎えてからは散歩は母さんの役割になったんだろう。
それから、しばらくあたりを散歩して僕たちは、じゃぁまた、と言って逆の道に進んだ。めったに会えないわけじゃないからな。
帰り道、犬を連れた主婦の女を見かけた。手にはスーパーのレジ袋と、二本のリード、チワワと黒いトイプードルを連れ、軽い足取りで僕が来た道の方に歩みを進める。すれ違いざま主婦の顔を見て僕は大きなため息をついた。
考えてみればというか、有名な話だが実際目の当たりにしてみると狂気性を感じてしまうものだ。有名な話というのは、同一の種類のペットを飼い続けるということだ。人が人であるうちまたはペットがペットである内は、人間にとって犬や猫は消耗品でしかない。逆に言えば犬や猫を家族だという輩にとっては、家族すらも消耗品なのだ。いわば幻想である。これをいうとモラリストに毎回キレられるのだが、消耗品であることが別に悪いことだとは思わない。消耗品でないもののほうが圧倒的に少ないのだ。僕が一番見てて嫌気がさすのは、事実から逃避的になりモラリストのふりを続け、幻想に現を抜かすバカだ。だが、それもまた善悪とかいう次元の話ではないのだ。ただ見ていると腹が立つという話だ。そういう意味では僕たちは消耗品でしかない。誇り高い消耗品になろう。コーヒーがなくなってしまったので今日は終わり。ゲームする。


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