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「無駄を省く」ゾンビ

 先日、親が明太子を買ってきた。最近魚卵の美味しさに気づいた私であったので、その報を聴いた私は内心喜びに満ちていた。あの塩辛さと白米の調和が堪らなく美味しい。長年不動であったご飯のお供ランキングに、突如としてダークホースが現れ、その牙城を崩していった。トップ5には確実に入るであろう。それほどに、明太子が美味しかったのであった。
 夜が暮れ、夜飯時となり、いざ件の明太子とご対面すると、私に強烈な違和感が走った。その明太子はなんと、縦長く、まるで駄菓子屋に売っているこんにゃくゼリーのような容器に詰められていたのであった。

駄菓子屋に売っているこんにゃくゼリー

 これには少々何かを思わざるを得なかった。これは、これには、あまりに"趣"が無いではないか。明太子とは、卵を包む皮のような物から、面倒くさいながらも、必要な量を取り、それを白飯に乗せ食べるものだろう。たとえ恐ろしく手間であったとしても、そこを楽しむことも、食事の醍醐味であろう。単に中身を取り出し、パック詰めした、「楽であればそれでよい」という思い、「無駄や手間が省けて丁度よい」という人間の浅さが透けて見えるこの食べ物には、些かの義憤に駆られる。
 例えてみれば、この行いとは、「カニの殻を取るのが面倒だからと、身だけ売られそれを茹でるだけ」のような、または「焼かれたサンマをほぐして食べるのが面倒だから、予めほぐされた身がそのまま売られ、それを焼くだけ」のようなことだろう。これらのような状況であっても、味に大した変化はないだろう。しかし、それは余りにも寂しい。まるで宇宙食ではないか。食べられる部分だけをパッキングし、体積を減らし、宇宙に持っていく。これは宇宙への運搬のための、必要不可欠な作業である。これをなぜ地球上でやるのか。何にも制限がかかるような特殊な環境である宇宙とは違い、我々地球上にいる人間は、ゆっくりと飯を食べ、その飯を楽しむ余裕がある。それをなぜ省くのか。
 手間や面倒を減らすために、その物の趣、風情を捨て去るのは、人の営みを否定するようなことであると、そう思える。 
 考えてみれば、現代社会でも同じことが言えるだろう。簡単だからと、手間が省けるからと言っている間に、辺りはコンクリートジャングルになってしまった。面倒だからと、不必要だからと古典文学への風当たりが強まってしまった。
 ただそれだけかもしれない。が、私にとっては悲しいこと。風流心を忘れた人間など、人である意味がない。人とは、深い知識を持ち、活用し、自分や、周りの人までもを幸福にしてこそ。少なくとも私はそうありたいし、そうあろうと努力している。その「趣」を置いてきた者共から、いかに世界を救うか。これは、地球上を覆わんとする「無駄を省く」という考えに罹患したゾンビから、この世を守り抜く聖戦なのだ。と、そんなことを考えてみても何かはせむ。
 余談だが、親が買ってきた明太子を口に入れてみると、とても美味しい。が、とても辛い。不思議とパッケージを見ると、「からし明太子」と書いてあった。辛いのは苦手だ。が、それも呑み込んでしまおう。

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