メトロポリス、ゴッサム 、セントラルシティの特徴

DCコミックのヒーローは特徴的なホームタウンがある場合が多い。
その中でも上記の3つは代表的な街だと思う。これからそれぞれの特徴と、そうなった理由の考察を記したい。

メトロポリスは極めて健全で、まさしく社会的な街だ。
そこに住む人の多くは、隣人を愛し、社会の規範を守り、社会の一員としての自覚を持って共に成長していこうと行動する。
これはスーパーマンが活躍する舞台だからだ。

スーパーマンは人知を超えた力を持っている。それ故に敵も大きな力を持たなけば戦いは成立しない。そして読者がスーパーヒーローに求めるのは、面白いバトルシーンだ。
結果メトロポリスは災害のような戦いに巻き込まれてしまう。
もし住民が社会性が低かったら、各地で争いが起こる。その暴動に注目して描写して面白い作品になる事も当然あるだろう。
しかし、その暴動はスーパーマンは解決できない。いや解決できるかも知れないが、少なくとも地味な場面が長々と続いてしまう。
よってメトロポリスの住民は災害に遭ってもへこたれず社会の復興を目指す。
そして、その事がよりスーパーマンのヒーロー性を高める。
つまり、逆境にめげずに立ち向かうメトロポリス市民とその象徴であるスーパーマンと云う構図が出来上がる。
スーパーマンはメトロポリスをただ庇護する存在ではなく、メトロポリスそのものでもあるのだ。


ゴッサムは社会として十分に機能しているとは言い難い。
住民はいつ隣人に襲われるかと怯えている。誰もが法律なんて無意味だと考え、自分の欲求を満たす事に真剣だ。
これはバットマンの活躍する舞台だからだ。

バットマンは超能力を持たない。それ故に戦いの規模は小さくなる。普通に戦う分には、家の壁が壊れるかどうかといった程度の被害しか出ないだろう。
それでは読者は惹きつけられない。ならどうすればいいか?
答えは物理的な規模ではなく、精神的な規模を大きくすれば良い。
バットマンの宿敵達もバットマンと同様に超能力を持った者は少ない。それ故に彼らの悪行を止めるのに大きな力は必要なく、必要なのは精神の力だ。
つまり謎を解決する知性と、ヴィランの狂気を理解する感情こそが、バットマンと云う作品の魅力となる。
ゴッサム市民の社会性が低いのはそのためだ。
社会は大きな力を持っている。もし少数の狂気があっても健全な社会ならば隔離され、それでおしまいだ。互いに正直な良好な関係を築けている社会で、何かしら大きな謎を隠し通す事は難しい。
社会を築いていくなら、狂気と隠し事は邪魔になる。
だから探偵であるバットマンが活躍するゴッサムは、社会より個人の精神を優先する様になる。
だが、それ故にゴッサムは魅力的だ。現実に誰しもが社会性が高いわけではない。たとえ命の危険があろうが、どんな人間でも自分は自分と胸を張って言える街がゴッサムだ。
いや、実際にそういった発言をしたらメトロポリスでは肯定されて、ゴッサムでは罵倒されるだろう。
だけど、本質的な意味合いとしては違う。
メトロポリスは人は社会の一員としての人格が尊重されるべきだと云う考えで、あくまで人間は社会の一部である。
それに対してゴッサムの罵倒は、俺はお前より優れていると云うマウンティングだ。しかし、それは自分と相手を同列の人間と認めているから起こるのだ。
ゴッサムでは誰もが自分と相手は同列の存在で、それは戦って勝てば得れて、負ければ失うと云う自然界のルールが適応されると云う事。
それは過酷なルールだが、社会に適合できない人間が自分自身を認めるためには、乗り越えるべき障害が必要なのだ。
バットマンの戦いは、ゴッサムに街として成立する最低限の秩序を得るための戦いだ。その最低限の秩序が無ければゴッサムは崩壊する。しかし、それ以上の秩序ができたらゴッサムの魅力は消える。

最後にセントラルシティについて。
セントラルシティのヒーローはフラッシュ。
彼は普通の人間でありながら超能力得てスーパーヒーローになった。彼はスーパーマンとバットマンの中間の存在と言える。
その為かセントラルシティはメトロポリスとゴッサムの中間の要素を持つ。
つまりセントラルの住民は社会の一員と云う自覚は低く、ルールよりも自分の欲求を優先する。しかし、ゴッサムの様に命をかけて自身の価値を証明しようとはせず、社会としては全うに成立するレベルのルール違反しか犯さない。
それ故にセントラルの住民はフラッシュとヴィランの戦いを怖れながらも楽しむ事ができ、フラッシュ記念館を作るのだ。

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