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いつか訪れるもの

ずいぶんnoteおやすみしてました。
つぶやき機能は使ってましたが、記事を書く気力がなかったもので。

というのも、自分の人生で「いつか直面するであろう大きな壁」が、ついに来てしまったというか、まあちょっと壁が見えちゃった、みたいな。

ずばり言うと「親の死」です。

まだ亡くなってません。大丈夫です。
親のプライバシーもあるので、どこまで書いて良いものか、自分でも少し悩んでいるんですが、とりあえず後々の自分のために、現状とそれに対する考えについてまとめておこうと思います。

発端

10月のはじめに、母からLINEで「少し話せる?」と連絡がありました。
もちろんだよ〜と返事して、電話をし終わったあと、聞かされた内容に頭がついてこられずに、私はしばらく頭が麻痺したような感覚になりました。

「私、もしかしたら、癌かもしれない」・・・。

前々から、ずっと母の体調が悪いことは、本人から知らされていました。
「なにかと身体にガタがきてる」「貧血がひどい」・・・などなど。

諸々の症状を聞きながら、私は「ちゃんと病院行ってる?」「入院勧められたなら入院してみたら?」とアドバイスするくらいしかできず、母は「歳が歳だからこんなもんでしょ」と入院を拒否し、通院で頑張っていました。

しかし、そんな母があまりの体調不良に耐えかねて大病院に行ったところ、発覚したのが癌でした。

手術に立ち会う

癌、というと怖いイメージしか浮かびませんが、そうはいっても2人に1人は癌にかかるほど、日本人は癌体質(?)だそうですね。

つまり、癌と一口に言っても、死に直結するようなものかどうかは、また別ということです。

しかし、母の癌は、想像していた以上に進行していました。
そのうえ、癌になった部位が少々厄介なところで、今まで通りに普通の生活を送ることはできないという話。人工臓器が必要になるとのことでした。

私はその時点では、ことの大きさに気づくことができず、ただただ「手術にはなるけどその手術で死ぬようなことはない」と聞いて安堵していました。

癌とは比較対象にはなりませんが、自分も精神的な病を抱えている身です
母の入院している病院までは、自宅から2時間ほどかかります。体調によっては電車に数十分乗っているだけでグロッキーになる私にとっては、それなりに遠い道のりです。

なので、手術の日まで、私は見舞いには一度も行かずにいました。
私の代わりに、病院に近い場所に住んでいる母の親族が、見舞いや手続きなどを代わって行ってくれていました。

手術日が決まり、手術内容について聞かされた私は、母に「さすがにお見舞い行くよ」と言いました。しかし、母いわく「手術したあとは麻酔でどうせ頭がぼんやりして話もできないから来なくて良いよ」。

「どうせ何もできないなら行っても仕方ないか」と考えていた私は、それでもなんだか煮えきらず、母の世話をしてくれている親戚に電話をして母の様子を尋ねました。すると、どうにも深刻な感じが否めない。
親戚も私の精神的な病について知っているので「無理しちゃ駄目だよ」とは言ってくれましたが、結局居ても立ってもいられなくなって、母のいる病院へと出発しました。

久々に会った母は、げっそりと痩せていました。もともと細い方ではありましたが、本当に「やつれた」としか言いようのない姿に、ものすごくショックを受けました。

同時に、こんな状態の母の手術に立ち会わずにいようとしていた自分にも、自責の念というか、ひどくいやな気持ちになりました。
私は一体何をしていたんだろう、と。何ができたのだろう、と思いました。

「ちょっと、お話があります」

医者に言われてこんなに不安になる言葉、他にあるでしょうか。

そこそこ長い手術になると聞いて、とりあえず待合室でおしゃべりして気長に待とうね、と親戚に励まされていた私は、まだ手術が終わるには早すぎる時間に母の担当の先生に呼ばれて、嫌な予感が背筋をかけていくのを感じました。

「癌を取り除く予定の手術でしたが、今のままだと手術で取り切れる状態ではありません。一旦、抗がん剤で小さくして、後日再手術ということになると思います。」

手術をすれば終わる、と思っていた私は、またもや頭がしびれるような気持ちになりました。親戚は涙を流していました。私より年上の大人が泣くのを見たのはとても久しぶりでした。

術後の、集中治療室で眠っている母の姿は、簡単には忘れられそうもありません。細い身体にあらゆる管がついて、生々しく血の痕が残っていました。

そんな状態の母の、麻酔から醒めての第一声が「迷惑かけてごめんなさい」でした。本当に、か細い声で、呼吸器をつけているので耳をすませないとわからないくらいに小さい声でしたが、はっきりと聞こえました。

親戚、もとい母の姉は「謝ることなんか何もない」と母を叱咤しました。
私はただただ母の手を握っていました。麻酔から醒めたばかりにしてはそれなりに力をこめて握り返してくれる母の手に、ひどく安心させられました。

その日は、ついていても何もできることはない、ということで、また2時間ほどかけて家に帰りました。帰って、たくさん、たくさん泣きました。

とにかく感情がめちゃくちゃで、母がかわいそうで泣いているのか、自分のバカさに腹を立てて泣いているのか、これからのことが不安で泣いているのか。おそらく全部だったんでしょうが、とにかく、ヤケクソ状態でした。

これからのこと

親が、それなりに重い癌を患った。
これはもう仕方のないことです。もっと早くに気づけていれば、とかいろいろ思うことはありますが、今となってはもうしょうがない。

現在の母は、ひとまず退院ということで、家に帰っています。それで私もしばらく実家にいたりもしました。結局、むしろ母の家事の邪魔になるなと思って、今はもう家に戻っていますが・・・。

抗がん剤の治療は半年ほど続きますし、そのたびに入院する必要があるようです。また、母は人工臓器に対してかなり抵抗があるようで、慣れるにはかなり時間がかかりそうです。そもそも慣れられるものなのかもわからない。

抗がん剤がどの程度効くのかもわかりませんし、副作用がどの程度出るかも、まだまだわかりません(普通、回を重ねるごとに出るらしいです)。

なので、これから何が起こるかは、本当に未知なのです。
もしかしたら抗がん剤がうまくきいて、手術でさっくり終わるかもしれない。あるいは、あまり想像したくないですが、癌が転移することだって、ないとは言い切れません。

ただ、私が退院したての母のそばにいるために実家に帰省してわかったのは、「私にできることは本当に限られている」ということでした。

結局、病気のつらさは本人にしかわからないのです。私自身が不安障害の苦しさを人に完璧に伝えることができないのと同じ。なった人にしかわからないものというのが、どうしてもあるのです。
そして、病気は本人が治すしかないし、付き合っていくしかないのです。
つらいときに愚痴や弱音を聞くことはいくらでもできますが、結局のところサポートしかできないのです。あくまでもサポート。”代替”はできない。

私は私で、まだまだ不安障害に縛られている部分があるというのは、実家に帰省してよくわかりました。両親の不仲家庭の問題が、自分の中でまだわだかまりになっているのが、身体に思い切りストレスとして出てきて、思わず笑ってしまうレベルでした。いまだに口内炎が治らねえんだが!?

そのへんの自分の解消しきれていない問題に関しても、おいおい向き合っていくというか、整理していきたい所存です。
母の病気をきっかけに発覚した衝撃の事実とかもいろいろあったんで・・・私ほんと何も知らずに生きてたんだな、と思わされたよ・・・

とりあえずは精神的病人が病人を介護することで共倒れ、みたいなことにならないように、まずは自分をしっかり労ることを第一として、そのうえで「親に何をできるか?」を考えていこうと思います。

人はみんないつか死ぬものだ!
というか自分もあんま他人のこと言ってられねえんだよなあ!?
結核と癌の家系、自閉症で不安障害。ハイブリッド泥水でした。

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