楽しくなれたなら

我が家では幼少の頃から、朝からしっかりとした食事をとることが絶対でした。

朝はコーヒーだけ、寝坊したから食べないなどという考えは許されず、量の多い料理が毎日用意されるのです。
もちろん、お残し厳禁です。

今となれば、それは母の食に対する並々ならぬ思いからであると分かりますが、体重を気にし始めた思春期には迷惑極まりなかったです。幾度となく悪態をついてしまったのは、私にとっても母にとっても苦い思い出でしょう。

私の人生の食事の大半を作ってきた母は、異常な程に添加物を嫌います。化学とつく、あらゆるものに敏感なのかもしれません。
四人兄弟で家計は決して豊かではありませんでしたが、そこに抜かりはないようでした。

食材を吟味するとき、裏表示を確認する癖は明らかに母譲りでしょう。

なににせよ、毎日現れる無添加の大量の朝食。
寝起き低血圧な私には、中々に強敵でした。

勉強に得意不得意があるように、朝食に関していえば、もっぱらパンが不得意です。嫌いではありませんが、朝食に連日並べられるとげんなりしてしまいます。

卵とツナ、ウインナー2本ときゅうりをそれぞれ挟んだコッペパンが2つ。デザートにリンゴ入りヨーグルトのイチゴジャム添え。

こんなにいらないよと何度言ったことでしょう。
母は増え始めた体重を気にして、自分だけスムージーなんか飲んでいるのに。
そう言ったなら、渋々四枚切りの食パンから六枚切りに変更してくれました。

朝起きて、四枚切りの食パンの上にたっぷりのピザソースとピーマン、ウインナーにチーズのトッピングを見ると、おはようの変わりにため息が漏れます。

せめて食パンにのせるなら、薄く伸ばしたマヨネーズに海苔をしき、しらすとチーズをちらしてほしい。リクエストが通れば苦労はしません。

母は本当に食べることが好きです。
対して、私は食事は生理現象だと思うような人間です。生きるための義務だとも。
ただ、母に強制された食事は、いつしか習慣になっていました。

母にとって食事はやりがいであり、楽しみであり、その時間だけでなく、それを考えるだけでわくわくする特別なものなのだと思います。

今日は何を食べようか。
あの新作の菓子を今度買おう。
今日も母は食事を作り、食後に甘い菓子を頬張るのでしょう。それが少し羨ましい。

美味しいが楽しいに。楽しいが嬉しいに。
彩り鮮やかにバランスのとれた人生は、豊かになっていくのだと思います。

バランスが保たれていた食事も、自分で用意しなければならない時が必ず来ます。

年齢を重ねると、好きなものを好きなだけとはいきませんが、健康に気遣いつつ、生きるためには欠かせない食事を、ひいてはおいしいを楽しめることが出来るようになれたなら。

隣で笑う母と一緒に笑ったなら、大量の朝食も悪くないと思う日がくるでしょうか。

今まで欠かさず毎日食事を用意してくれた母に感謝を、美味しそうに楽しそうに食べる母に敬意をもてたなら、明日の一口が味わい深いものになるかもしれません。


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