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始まりの場所

 燈に出逢ったあの日、私は自分がこの世界に生まれてきた意味を知った。それは、“生まれる前の私”と私との魂に刻まれた約束だった。





 臨床心理士のマオ先生と共にトラウマ治療を続けて、もうすぐ一年が経とうとしていた。私の中に隠されていた過去の私たちを一人ずつ見つけ出し、一人一人と当時の感情を共有し、寄り添ってきた。あれほど人生に絶望していた私は、もうここにはいない。けれど、そんな私の晴れやかな心とは裏腹に、トラウマ治療のワークには暗雲が立ち込めてゆく。
 心の中に居座る“あの人”と決別し、“私に嫌われた私”である雪柳と幾つものエピソードをやり直してきた。その過程で自分自身の心を取り戻すことに成功した私は、幸福、希望、はじまり、そして最強装備を身に付けたこころと共に一枚の扉の前に辿り着く。扉の前に姿を現した繋(きずな)から、いつまでも自分の心を曝け出すことを躊躇っている私へ、涙交じりのエールが贈られた。
『なりたい自分になるんでしょ!?目先のことに気をとられてうじうじ悩んでるけど、それが解決したら満足なの?あなたが本当に望んでるのはそんなことじゃないでしょ?なりたい自分になって、やりたいことも、叶えたい夢もたくさんあるんでしょ!?全部この扉の向こうにしかないんだよ。』
 そこまで言われても、初めの一歩を踏み出せないでいる私に
『大丈夫って言って欲しい時はいつでも言ってあげるから。いつでもここへ帰っておいでよ。』
 繋はそう言ってくれた。何とか扉の向こう側へ進む決意をした私には、一人ひとつずつ旅のお供が手渡された。それぞれが毎日を乗り越える為の装備品だ。そして最後に、はじまり、希望、幸福が私の前へ横一列に並んだ。はじまりからは私の生き方を変えたあの歌の歌詞が、希望からは剣が、幸福からは手紙が託された。その一つ一つが私へのエールだった。みんなからのエールをバックパックに詰め込んで、私は一人扉の向こうへ歩みを進めた。
 先へ進む覚悟をしたのはいいけれど、そこからのイメージは常に靄がかかったように視界がはっきりしなかった。
ー私に見せたいものは何? 教えて。
 扉の向こうに続く一本道を進むことだけに集中するけれど、靄が晴れることはなかった。靄だらけのこの世界で迷ってしまわないように、と授けてくれたこころの光る花を肌身離さず持ち歩いた。その道中、亡くなった祖母や親戚、血の繋がらない姉弟たちの母親に会い会話を交わしては出口のない森の中を彷徨った。最初の一本道に戻っても、その先私が進むべき方角が定まらない。私は扉の向こう側で見守っている幸福に話しかける。
「この道の先には一体何が待ち構えているんだろう?」
 私の質問に、幸福は
『理想の峰なんじゃないかな。』
と答えた。どれだけ先が見えなくても、前へ進むことを止めるわけにはいかない。進んだ先に例え理想の峰が待っていなくとも、私は進むと決めたのだ。そう希望に誓った。とは言っても、これであってるのか? 正解のない作業に不安ばかり募る。その時ふと、人生も同じだなという考えが頭に浮かんだ。この先に何が起こるのか、何が正解なのかわからない日々を、不安を抱きながらも前へ進んでゆく。
ーそっか、それが生きるっていうことか。
 当たり前すぎることにようやっと気づいた私は、ひたすら歩いてきた一本道の先に分かれ道を見つけた。さっきまで一寸先は靄だったのに、その分かれ道は私の瞳に鮮明に映し出された。そして、左に逸れる道の先には、崖のように聳え立つ、まさに理想の峰が静かに佇んでいた。
 私の心の中で起きたここまでのことをマオ先生に伝え、分かれ道の真ん中にこころの花を植えて、私はそっと目を開けた。
「今まで取り扱ってきた過去よりも、より一層深い部分に足を踏み入れているから、イメージもはっきりしてこなかったりする。だけどこうして少しずつでもイメージが動いているから、しんどいかもしれないけれど集中してやっていこう。」
 マオ先生はそんな風に言ってくれた。今までのワークでは、イメージが次から次へと思い浮かび、場面も自然と動いていたからかとてもやりやすかった。けれど、私が心の奥底だと思っていた場所よりも更に深い世界へ入って行くと、今までのように上手くはいかなくなった。ここ数週間のワークをじれったく思っていた私へ向けた、マオ先生からのアドバイスだった。信頼しているマオ先生にそう言ってもらえたお陰で、靄だらけの世界とも逃げずに向き合ってゆけるのだ。



 翌週のワークでは、前回見つけた分かれ道を目指した。目印に植えたこころの花を鉢植えに植え替えて小脇に抱えた私は、理想の峰へ繋がっている左の道へ進むことを選んだ。峰の麓の緩やかな上り坂を一歩一歩進みながら、もう会えなくなった従兄弟の兄ちゃんたちや、幼い頃一緒になって遊んでくれた祖母の姉のことを思い出しては、その人たちへの感謝を伝えていった。今まで伝えられなかった想いを伝えながら過去のエピソードに浸っていると、開けた視界が飛び込んできた。私はいつの間にか峰の中腹まで登っていたようだった。その場所からは私が今まで進んできた扉の向こう側の世界を一望できた。各回のワークで出会ってきた人たちが、それぞれの場所から私を見ていてくれた。その光景を眺めていると、私の頭には再び“あの人”のことが過った。
 “あの人”とは、私を暴力や言葉で虐げてきた母親のことだ。いつだったか、虐待は繰り返されると聞いたことがあった。私はその言葉通り、自分が“あの人”のようになってしまうことを恐れた。今はまだ耐えられているけれど、それがいつまで続くかわからない。私は“あの人”の子だ。“あの人”という闇からは一生抜け出せないのかもしれない。そんな恐怖の闇が私を支配しそうになると、扉の向こう側の世界のみんなが
『大丈夫。あなたならきっとできるよ。』
と励ましてくれた。その激励の言葉が闇の影を照らしてくれる。だからこそ、どんな不安や恐怖に襲われても私はまた上を向いて歩いてゆける。そんな上を向く勇気をくれるみんなへ
「私と出会ってくれてありがとう。」
と、感謝の言葉を伝えた。ちょうどそのタイミングでワーク終了の音楽が聞こえてきた。目印にこころの花を峰の中腹に植えると、突然きらきらと放たれる煌めきが空へ打ち上げられた。まるで花火のように打ち上げられた煌めきは、扉の向こう側の世界を、私の心の宇宙(そら)のように染めていった。そのあまりにも美しい光景を眺めながら、私はこころと、私の中の私たちに
「ありがとう。これからもよろしく。」
と伝えて、現実へと意識を戻した。



 次のトラウマ治療はこころの打ち上げ花火を眺めてから二週間後だった。そこから、靄がかった扉の向こう側の世界に異変が起きる。
 前回のワークで最後に立ち止まった峰の中腹へ行くと、また“あの人”のことが気にかかった。“あの人”はあれだけのことをしておいて、自分に孫ができると急に私たちにはくれなかった愛情を注ぎ始めた。その光景をみていると、あの頃堪えた醜い言葉たちを吐き出してしまいそうになる。週末になるたびに我が家へ遊びに来たがるのだけれど、姿を変えた“あの人”を見ていると苛立ちを隠せない。その苛立ちを“あの人”へぶつけられない私は、娘に当たり散らしてしまうのだ。その悪循環を絶つ為に、毎週何かと理由を付けて断るようにした。そのうち自分は疎ましく思われているのだと気づいて連絡が途絶えることを望んだのだけれど、そんなに上手くいく訳がない。そんな毎週末の“あの人”との攻防戦には正直うんざりしていた。
ーまぁ、そんなに簡単に解決するわけないか。
 諦めというよりは、受け止めに近い感情でこの問題と向き合った後、今は取り敢えず先へ進もうと思った。トラウマ治療を一年続けても、未だに私は、“あの人”の影に怯えながら生きている。口には出さずとも、突如襲いかかる心の闇は私の大部分を蝕んでいた。そんなことを考えていたからか、峰の頂上目掛けて続いていた上り坂を雲の群れが覆い隠し、私の行く手を阻んだ。
ー私、何か間違えたかな。
 いつもの私の悪い癖だった。このワークにも、人生にも正解などないのだ。だからこそ注意深く意識を集中させて、小さな変化を見つけなければならない。一旦頭の中をまっさらにして、私が見逃している大切なことは何かを探した。すると、扉の向こうへ進む時に希望が私に渡してくれた剣のことが気になり始めた。あの剣は一体何に使うのだろうかと疑問を抱く私を、更なる雲が分厚く覆い隠した。これでは目の前どころか、今自分が何処にいるのかもわからない。ごちゃごちゃしだしたイメージの中で
「そういえばこころの花、置いてきちゃった。」
 肌身離さず持ち歩いていたこころの花を中腹に植えたまま、置いてきてしまったことが気になり言葉にしてみる。急に話し出した私に、こころは
『あなたの心の中にちゃんと植わっているから、大丈夫だよ。』
と言ってくれた。そして希望に先程の疑問をぶつけてみると
『その時がくればわかるよ。』
とだけ教えてくれた。その時はいつ来るのかと問いただそうとすると
『私のこと思い出してくれてありがとう!』
と誰かが言った。“認めてほしい私”のまっすぐだった。彼女は、いつもどんなに頑張っても自分を褒めてくれたことのない“あの人”の代わりに自分を認めてくれる人を探していた。必死に探すあまり、その必死さは常軌を逸していた。そして同じような失敗を繰り返し、いつしか
『認めてもらおうとするだけ無駄なんだ。』
 そんな風に諦めの感情を抱いた“惨めな私”のそらが生まれた。あの時のワークではそらの存在に着目するあまり、まっすぐの声にはまだ耳を傾けられていなかった。その彼女が、急に感謝を述べ始めた。
『私、今までずっとどうして上手くいかないんだろうってそればかり考えて、苦しかった。けどね、あなたが私を思い出してくれたお陰で、ここにいるみんなが私に力を貸してくれるようになったの。だからね、今はもう苦しくないよ。』
 何故この場面で自分の気持ちを伝えようと思ったか不思議に思ったけれど、まっすぐの想いを聞いたことで、私の心は落ち着きを取り戻した。その心のまま、再び今いる場面に意識を集中させるのだけれど、見えてくる景色は全てが曖昧だった。道がまっすぐ伸びていくかと思えば、突然頂上が現れたりする。私は何を信じたらいいのかわからなくなり、またもや不安に陥りそうになる。その時だった。まるで無声映画をコマ送りで見ているかのように、場面が静かに動き始めた。私は理想の峰の頂上に立ち、希望から託された剣を地面へ突き刺していた。物凄い突風と共に、閃光のようなものがバチバチと無数に辺りを駆け巡る。その光がふわぁっと広がったかと思うと、バリアへと姿を変え、扉の向こう側の世界を覆うように張り巡らされた。ここまでイメージが進むと、音量は通常を取り戻した。音を得た世界で、私は不安を隠せず希望に尋ねる。
「ねぇ、これでよかったの?合ってる?」
 希望も、私の中の私たちも、目の前で繰り広げられる光景に気を取られ、私の声など耳に入らない。それに、彼女もきっと正解を知らないのだ。何故ならそれが生きるということだから。不安に包まれたまま、その日のワークは終わりを告げた。終了間際、そのシーンをじっくり見るようにして戻ってこようと言われ、私はその景色を記憶するようにして目を開けた。
「バリアは、その場所にもう少し留まった方がいいということを意味している。次回もこの場所へ行って、他にも何か隠れているはずだから、それを見ていく感じでやっていこう。」
 マオ先生のこの言葉の通り、次回のワークで、私は今まで見落としていた大切な何かを見つけ出すのだった。



 一週間後、私はマオ先生の元を訪れ、早速前回の続きを見ていくことになった。ワークの開始前に、マオ先生から突如現れたバリアの意味について説明があった。それだけこの場面が重要なのだということが私にも伝わってくる。
 希望から託された剣を地面に突き刺した時に表れた突風や、バチバチとした閃光のような物は、今進行しているエピソードとは別の軸の何かが現れることを仄めかしているのだそうだ。バリアに覆われた扉の向こう側の世界を見ていくうえで、
「全く関係ないものが思い浮かんだように見えても、ひとまずそれをじっくり見ていくようにしてやってみよう。」
とマオ先生は言った。そのアドバイス通り、目を閉じて浮かんでくるイメージに身を委ねることにした。正解が何なのかもわからない中、希望の剣を地面へ突き刺した私。その剣を見ていると、何故だかそれが言葉の剣のように思えてきた。色んな言葉に傷つけられ、時には誰かを傷つけてきた私は、心無い言葉というものがどれほど人を苦しめるかを痛いほど学んだ。抉られた心を癒すのには信頼できる医師、それに時間とお金が必要だ。剣とは、時に人を傷つける武器になる。だからこそ希望に託されたこの剣だけは、誰かを傷つける武器ではなく、心無い言葉から自分や誰かを護る為の装備であって欲しいと願った。閃きのように次々と考えが浮かんで気が緩んだ瞬間、またイメージがごちゃごちゃし始めた。
「もう少しその場面を見てみよう。」
 マオ先生に言われ、私はもう一度言葉の剣を見つめた。
ー私に見せたいものは何?思い出させたいことは何?どうか教えて。
 その一心で意識を研ぎ澄ますと、今まで生きてきた中で、良くも悪くも私に色んな言葉を掛けてきた色んな人たちとの記憶が散り散りに現れた。私は光に変化して、時系列もばらばらのその記憶を光速で辿りながら、当時のエピソードを思い出していた。四十年分の記憶をあちこち見て回りながら、このまま一体何処へ向かうのかと行き先を目で辿ると、大きな闇が私を待ち構えていた。このまま進んだら確実に闇に飲み込まれる、と気づいた時には既に手遅れだった。逃げようともがく間もなく、私は闇の向こうへと吸い込まれてしまった。

 闇の向こうで目を開けると、私が抱いていた不安や恐怖は取り越し苦労だったと言わんばかりに、明るく穏やかな空間が広がっていた。空の上の更に上の、現実とは別の世界のようだった。そこに居た一人の少女が、現実世界を覗き込んでこう呟いた。
『あの人、泣いてる。助けてあげなきゃ。』
 この子が誰なのか? 正体はわからないけれど、ひとまず話しかけることにした。
「どうして助けてあげなきゃって思うの?」
 私の質問に、少女はこう答えた。
『だって泣いてばかりじゃ楽しくないでしょ?誰だって最後は笑顔にならなきゃ。幸せになるために生まれるんだから。』
 この時、この少女は“生まれる前の私”で、これから“あの人”を助けに行こうとしているんだと確信した。だとすれば、私はこの子を引き留めるべきなんだろうか? これから起こることを考えるとついそうしてしまいたくなる。
「助けに行って、自分が辛い思いをすることになったらどうするの?」
『その時は誰かが助けてくれるから大丈夫。』
「誰も助けてくれなかったら?」
『そしたらその時考える。』
 “生まれる前の私”は、この先にどんな人生が待ち受けているのか知りもしないのだろう。そんな呑気に構えていては、きっとこの先の人生を生き抜けない。何の覚悟もない少女に現実を教えてやろうと思った。
「進むって決めたら後戻りなんてできないんだよ?もっとよく考えなよ。」
 私は代案として他の母親の元へ行くことを勧めた。しかし彼女は頑なで
『違う場所を選んでも、その先に何が起こるかわからないのは同じだから。』
と、私の助言に耳を傾けるつもりもないようだった。一度決めたら誰の意見も耳に入らなくなる、そんな一面が私にもある。扱いづらい頑固な自分の一面が、こんなに重要な局面で邪魔をするとは思ってもみなかった。少女は一点を見つめたまま微動だにしない。既に心は決まっていたのだ。
『私が行くって決めたの。』
 その一言に、もう止めても無駄なのだと悟った。私は自分で決めたことならば、その先の未来に打ち負かされそうになったとしても、その選択を後悔することはなかった。きっとそれはこの子も同じだろう。なにせ私自身なのだから。
『今日まで生きてきた中で、あなたはたくさんの人に助けられてきたでしょう?だからこそ諦めずにここまで来れたんじゃない。負けなかったじゃない。だから絶対に大丈夫。』
 そう言うと、飛んで行ってしまった。何も知らないと思っていた少女は、その先に待ち受けているものが何なのかを全て知っていた。知っていて行くと決めたのだ。きっと相当な覚悟だったに違いない。“あの人”を助けてあげようという覚悟は、私の魂に刻み込まれていた。そりゃあどんなに憎んでも嫌っても苦しいはずだ。自分の意思に反したことをしていたのだから。飛んで行った少女の後ろ姿に、だめ押しをするかのように声を掛けた。
「たくさん辛いこと起こるよ!」
 辛いなんてもんじゃない。一時は命を捨てようとさえ思った。大切な夢を捨ててまで。結果として今は幸せでも、その過程は地獄のようなものだった。
『わかってるー!』
 その先に何が待っていたとしても進む。そう言った希望の姿が、少女に重なって見えた。
「もう無理だって諦めたくなる時が何度も来るよ!何度もだよ!」
 悪いことは重なると言うけれど、本当にドミノ倒しのように、これでもかと押し寄せてくる。一つ二つならまだしも、どん底だと思ったら更にどん底へ突き落とされるのだ。
『うん、知ってるー!』
 誰かの為に。そう思って歌っていた私を思い出した。今更だけど、この子が行くと決めたから私はここにいる。その先で想像していたのとは違う世界が待ち受けていて、何度も諦めかけながらも、たくさんの人たちに助けられ支えられて今を生きてる。ここがその始まりの場所なのだ。この人生でよかったとは一ミリも思わない。けれど、この人生だったから“今の私”がいる。それが全てだ。もう姿も見えなくなりそうなくらい遠くへ飛んで行った“生まれる前の私”に、最後に伝えたい言葉を叫んだ。これでもかってくらいに大きな声で。






「行くって決めてくれてありがとーーーー!」



『どういたしましてー!!!』






 きっと、ずっと、その言葉を待っていただろう。自らの選択に後悔なんかしていない、と思う為に。どんなに遠く離れても、あなたの嬉しそうな顔が私には見えるよ。ありがとう。あなたが嬉しいと私も嬉しい。生まれてきてくれてありがとう。生きててくれてありがとう。
 既にワーク終了の音楽は流れていたけれど、気持ちを落ち着かせ、扉の向こうにいるみんなの方へ顔を向けた。ここまでの場面を一緒に見ていたみんなは、安心した表情を見せてくれた。
「みんなは知ってたかもしれないけど、私自分で行くって決めたみたい。どんな風になるのか想像つかないけど、自分で決めたことだからやらなくちゃね。」
 死ねばいいとまで憎んだ相手を助けるだなんて、ばかげている。それでもやらなければ私の目標は達成されないのだ。悔しいけれど、この世でたった一人の血の繋がった母親だ。残された時間の中で後悔のない選択をしていきたい。
「みんな、いつも側で見守っていてくれてありがとう。」
 扉の向こうへ感謝を届けて、その場を後にした。

 この日、絡まった糸が全て解けた時のように、頭の中がすっきりとしていくのを感じた。何故生まれてきたのか、何の為に生きているのか、探し続けた答えは自分の中にあった。私は自分で“あの人”を助けると決めて生まれてきた。そして後悔してもしなくても、それを成し遂げるために生きている。もちろんそれだけの為ではないけれど、“生まれる前の私”と“今の私”との魂に刻まれた約束だ。それに気づけただけで、今まで私を苦しめてきた心の闇の九分九厘は解決したように思えた。
「私が生まれてきたのは間違いなんかじゃなかった。」
 心からそう思える。それだけでもう私は充分幸せだった。

 私の魂に刻まれた覚悟が、今日のワークの中で、胸の辺りにランプのような淡い光を放った。
『あなたと私の約束は、ここにあるよ。いつまでもここにいるよ。忘れないでね。』
 そう言っているようだった。オレンジ色に染まる二人の約束は、まるで“生まれる前の私”そのものだ。
「燈。」
 私がそう呼びかけると、深いオレンジの光が胸を滲ませた。まるで彼女が呼応しているかのようだった。




 探し求めていた答えを見つけ出し、自分のやるべきことや覚悟がはっきりと写し出された。あとは前に進むだけだ。マオ先生も
「もうこれは浮かんでくるものをただ見ていく方がよいと思うので、早速入っていってみよう。」
と言った。
 この一週間、私の中の私たちのことを想っていた。どんな人生が待っているのかを知りながら私を選んだ燈。その辛く苦しい人生を必死の思いで生き抜いてきてくれた私の中の私たち。まるでリレーのようにかろうじてバトンを繋いでくれたお陰で、今を生きている。私は飛んで行った燈のあとを追いかけ、私たちが生まれた日から今日までの人生を傍で見守っていくことにした。
 私は幼い頃から言葉遣いが悪かった。中学生になると言葉遣いは更に荒れゆく。そんな私を見かねた国語の先生が私に諭すようにこう言ってきた。
「お前は女の子なんだから、そんな言葉遣いしない方がいいぞ。大人になった時に後悔するぞ。」
 今でも覚えている。授業終わりの薄暗い図書室で、静かな声で語りかけるように話す先生の顔を。先生はきっと私に届けとばかりに話をしてくれていたのだろう。当時はまだ多様性という概念が浸透していなかったにしろ、何故私がそんなことで叱られなければならないのか理解できなかった。
ーお前に関係ねぇだろ。
 声に出さず叫びながら、歯を食いしばって泣いた。何十年の時を経て、私はその時の先生の言葉に感謝できるようになった。私を思って叱ってくれたのは先生が初めてだった。先生のように誰かの将来の為に真剣に向き合える人に。今ではそれが私の新たな夢になった。
 中学時代に起きた嬉しい記憶を次々に辿っていくと、幼かった燈が成長した姿で現れた。
『ね、生まれてきてよかったでしょ?』
「そうだね。」
 自分の選択が間違っていなかったと誇らしげな表情を見せた。
『ここまでで、後悔はしてない?』
 燈も、私も、同じ気持ちでなければ前に進めない。それを確認する為の質問だろうと思った。
「うん、してない。」
 私がそう答えると、燈は口の両端を少し釣り上げ私の手をとった。
『まだまだ先を急ぐよ!』
 そして次の記憶へと飛んでゆく。そこからの記憶は不思議と嬉しかったものばかりで溢れていた。高校の学園祭での初ライブ。路上ライブ。音楽の師匠との出会い。自分の才能を褒められたこと。大切な部活の後輩たちと過ごした日々。こんな私にも何かを夢見て、それを形にし、素敵なめぐり逢いの中で、認めてもらい、誰かの為に一生懸命になることができる。
『あなたの心の中には良いところもちゃんとあるって、みんなわかってる。だから今でもこうして傍にいてくれる。いつもどこか不安でしょうがないって顔してるけど、あなたを見てくれている人はちゃんといるよ。その人たちに、あなたの想いは届いてる。だから迷わず進めばいいんだよ。』
 そう話すと、私の手を引いて歩いていた燈の足がぴたりと止まった。渇いた土に誰かが踵で描いた線が、今いる場所を過去と未来とに隔てていた。二人同時に線の向こうへ目をやった。ここは“今の私”のスタートラインだ。私たちが生きてゆく未来(これから)が主人公の登場を心待ちにしていた。何もない一本道がどこまでも真っ直ぐ、太陽の下で堂々と寝そべっている。
『私が一緒に行けるのはここまで。どうしてかはわかるよね?』
 私は軽く頷いた。
『今まで通りでいい。無理なんかしなくていい。何が起こっても、全力で向き合えば道は拓ける。だから大丈夫。それに私たちがついてるしね。』
 誰の目に映らなくても、私には最強の仲間がいる。独りじゃないんだ。扉の前で言い訳ばかり考えていた私はもういない。出発直前、私は燈を抱き締めた。
「ありがとう。私、頑張ってみる。もう負けない。」
 スタートラインに辿り着けたこと、そしてこの場所にみんなと一緒に立てていることへの感謝を伝えるように、高く深く想いを込めた。そして私の中の私たちを心に思い浮かべながら、未だ見ぬ明日を歩き出した。

 トラウマ治療を始めてちょうど一年。長い長い心の夜が明けていった。

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