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ひかげのたいよう#3

“誰にも助けを求められない私”

 私の日常は至って平凡で幸せに満ちていた。結婚はまだなのかと親戚から急かされることはあっても、焦らず自分らしい道を選択。その道の先で旦那や娘と巡り会い、家族三人、笑いあり涙あり溜息ありの日々を送っている。旦那は家事も育児も何でもこなす、常に誰からも頼りにされる存在だ。周囲の奥様方からは神夫と崇められていた。恥ずかしがりで寂しがりの愛しい娘は、周囲よりちょっと成長が早く、大人顔負けの表現力でいつも私たちを驚かせてくれる。結婚した翌年に購入したマイホームだって南の空を遮る建物はなく、暮らすには充分過ぎるくらい人や土地に恵まれていた。試行錯誤のDIYで創り上げた自慢の城は、至る所に思い出の浸み込んだ傷跡が残っている。この日常が幸せなのかどうかアンケートをとったら、きっと〈幸せ〉が過半数を占めるであろうことは容易に想像できる。......のに。それなのに。何故か心はからっぽだった。
 この異変は数年前から徐々に始まっていた。結婚をして、子供が生まれて、初めての育児に四苦八苦する。どこにでもよくある話だ。よくある話だから、と育児に必死になる内に大切なサインを見逃してしまっていた。右も左もわからない初めての育児で、“誰にも助けを求められない私”はいつも何かに苛立っていた。何にそんなに苛立つのかと聞かれても、私自身よくわかっていなかった。それなのに旦那は勿論、私自身でさえ
「どうしてそんなにいらいらしちゃうんだろうね。」
 そんな無意味な質問を自分自身に投げかけ続けた。育児が上手くいかず苛立っていたのかと日常を振り返ってみても、周囲より娘の成長が早かった分、他のお母さんたちと比べるとさほど大変ではなかったように思う。おむつの卒業、平仮名・片仮名の読み書き、自転車等々、教えてもいないのに気づいたら出来るようになっていた。言わばスーパーベイビーだ。娘の成長ぶりを話すと
「手が掛からなくていいねぇ。」
 そんな風に言われることがしばしばあった。そうかもしれないのだけれど、この言葉が“誰にも助けを求められない私”の胸を閊えさせて苦しめた。周囲に対する警戒心が強すぎて、どうしたらいいかわからない時でも誰にも相談ができない中、手探りで何とか日々を乗り越えてきた私の努力は誰の目にも留まることはなかった。そんな私の産後最初の難関は、母乳で育てるかミルクにするかだった。何故なら私はあまり母乳が出なかったからだ。
「帝王切開だとあまり母乳が出ないかもしれないけどねぇ。がんばんなよ。」
 そう言ってくれた祖母の言葉を思い出す。新生児の頃はだいたい三時間おきに母乳を与えるよう教わる。けれど私の場合母乳は出ないし、娘も上手に飲むことができず、毎日三時間おきに苦戦を強いられた。母乳さえ与えれば終わり、ではない。追加でミルクを飲ませて、げっぷをさせて、おむつを替え寝かしつける。哺乳瓶だって洗わなければならない。娘はげっぷをするのも得意ではなかった。げっぷをさせるのは、寝ている時にミルクを吐いてしまい喉に詰まったら危険だからだ。助産師さんに教わったように背中をさすっても、軽く叩いても何をしても出ず、仕方なく娘を横向きに寝かせた。教わった通り、仰向けにならないように背中側に丸めたタオルを置き、もしミルクを吐いてしまっても喉に詰まらないようにする。そこまでしても
ーもしも何かあったら。
 そんな不安が消えることはなく、寝ている間も目が離せなかった。その合間に洗濯をしたりご飯を食べたりしていると横になって休む時間なんてない。私は誰にも助けを求められない。全て自分でやるしかないのだ。なんでもやってくれる旦那は、徹夜作業で夜いないこともある。始めは娘と二人きりの夜が不安で、ちょっとしたことでパニックになった。そんな時に頼りになるのが小児救急相談センターだった。慌てている私に対して、冷静に対応する誰だか知らない人の声を聞いているうちに心が落ち着きを取り戻してゆく。はっと我に返ると
ー私は一体何にこんなに慌ててたんだろう。
 だんだん自分が恥ずかしくなり、話を早々に切り上げて電話を切った。誰かに頼れたらもっと楽ができたと思うけれど、私にはそれができない。一ヶ月健診を迎える前にはだいぶストレスが溜まっていた。健診の際にミルクのみで育てていこうと思っていることを助産師さんに告げると、私の気持ちを尊重してくれた上で
「ただ、色んなことを言う人がいるから、何を言われても気にしないことが大切よ。」
と言ってくれた。その時は何を気にすることがあるのかわからなかったけれど、その言葉を忘れないようにしておこうと思った。
 娘と過ごすことにも慣れてきて、助産師さんからのアドバイスも忘れかけていた頃、外へ出掛ける回数が徐々に増え始めた。もともと出掛けるのが好きな方だ。それに育児には気分転換も大事だと言う。朝をスムーズに過ごせた日は、メイクをして、少しお洒落もして、太陽が見守る街並みを風を切るように歩いた。そんな私を、外の世界は余所者を出迎えるようにあしらう。抱っこ紐で娘を抱え、荷物でぱんぱんのリュックを背負い、ベビーカーを押して舗装されていない道を歩く。家から何処かへ行くには、バスと電車を乗り継がなければならない。ベビーカーを折り畳んでバスに乗り込み、ぐずりそうな娘をあやしながら、荷物と自分が倒れないように必死に手摺にしがみつく。娘を連れての外出は想像以上に困難で、気分が晴れるどころか分厚い雲がかかってゆく。回を重ねるうちにそれは積乱雲となり、心に冷たい風が吹き荒れ始めた。幼い子供を連れて何処かへ行くだけでも大変なのに、私を悩ませる問題は別にあった。娘を連れていると声を掛けられる機会が急激に増える。人と接することが苦手な私には、知らない人との会話がとても苦痛だった。
「あら、可愛いわねぇ。」
「お名前は?」
「今いくつ?」
「これからどこへ行くの?」
 そんな人たちからの問いかけには、いつも苦笑いで適当に返答していた。あまり長話になるのも嫌だったし、個人情報を公共の場で曝け出すのはどうも慣れない。まあ多少嫌な気持ちになったとしてもその場限りだし、忘れちゃえばいいやくらいに思っていた。けれどいつか助産師さんが言っていた言葉の意味をはっきりと理解する日はやってくるのだった。私にその言葉の意味を教えてくれたのは、知り合いの知り合いといった関係の、年配の女性だった。その日に顔を合わせたばかりのその人は、互いに名前も覚えられていない段階で剛速球のストレートをお見舞いしてきた。
「母乳で育てているの?」
 その言葉は私の左脇腹に直撃した。投げた張本人は気にもせず、マウンドの上で次の展開をただ待っている。それってあなたに関係ありますかと質問に質問で返したくなったが、初対面ということもあって踏みとどまる。痛みを堪えながら何とか立ち上がり出塁した私は、母乳がなかなか出なくて止む無くミルクに変えたことを伝える。しかし返ってきたのは、案の定思いやりの欠片もない言葉だった。
「母乳で育てたほうがいいのよねぇ。免疫力もつくって言うし。ほら、ニュースでもよくやってる突然死っていうの?あれも防げるんですってよ。」
 現在進行形で育児中の私がそれを知らないわけがない。マッサージや搾乳器も試した。そこまで努力してもダメで仕方なく選択した道だった。あなたの努力が足りないのよと言われているようで不愉快だった。それに突然死というけれど、誰かに責任を押しつけるような考えは、奥歯にものが挟まったようですっきりしない。私は世間のそういう押しつけが大嫌いだった。心の中が怒りで満たされそうになると、助産師さんの言葉がそれを一掃する。
ーああ、気にしないってこういうことか!
 心の中で、掌を拳でぽんっと叩いた。言っている本人は私の為と思っているみたいだけれど、そういった感情が思いやりとして私に届いたことは一度もない。時代は刻一刻と変化している。アドバイスをくれたその人と私とでは子育てをする環境が全く違うのだ。私がどんな風に娘を育てているか、その努力の度合いをちぐはぐな尺度で測られるのがとても嫌だった。そんな一方通行のアドバイスを上手に聞き流すこともできず、見せかけだけの思いやりなどさらっと躱せるくらい立派な娘に育ててみせると息巻いた。

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