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ひかげのたいよう#5

“怒りに満ち溢れた私”

 苛立ちが頂点に達したある夜、私はいつものように怒鳴り散らし、手元にある物を片っ端から投げ飛ばした。旦那はそんな私から娘を遠ざけようとする。丁度寝かしつける時間だったこともあり、娘を連れて二階の寝室へ向かった。旦那はいつも当たり前の日常を優先させて、私を出口のない闇の中へ置き去りにする。どうしようもない感情に苦しめられる夜だって例外ではなかった。私の苛立ちは次第にそんな二人へ向けられてゆく。
『こんなに叫んでるのに、どうしてわかってくれないの?』
 あの声が再び叫んだ。為す術をなくした私は二階の使っていない部屋へ行き、棚やその辺にある物でドアを塞いだ。誰も味方のいないこの世界で私は独りぼっちだと全身で表現してみせた。そうすればこの苛立ちが伝わるかもしれない。そう思った。けれど私の一縷の望みは、夜の闇に響き渡る秒針にすら立ち向かう勇気を持ち合わせていない。部屋のドアは一晩中閉ざされたまま、開け放たれることはなかった。どれだけ拒んでも
「じあんが必要なんだ。」
 塞がれた扉をこじ開けて、そう言って欲しかった。諦めずに言い続けて欲しかった。そうでないと愛されていると感じることができなかった。
『やっぱり誰も私を愛してくれないんだ。』
 この時初めて、扉の向こうでぽつりと呟くその声に耳を傾けた。諦めのような感情は、私が抱く孤独と色も形も似通っていた。思っていることを言葉にするのも一つの方法なんだろう。けれど私は言葉にしなくてもわかって欲しかった。何故なら、伝えたいのは言葉じゃない。心だ。ツライ。クルシイ。サビシイ。カナシイ。文字にしただけでは伝わらない、私の心の内側を見て欲しかった。どんなに泣いても、叫んでも、物を投げても壊しても、閉じ籠っても伝わらない心の内を伝える方法はどこにも見当たらなかった。そんな現実に嫌気がさしたところで、翌日も日常はやってくる。いつもなら朝食の準備をする音やテレビの音、会話をする声が少しずつリビングを満たしていくのだけれど、この日の朝は違った。旦那は娘だけを連れてリビングへ降りていくと、いつもと変わらない朝を過ごし始めたのだ。私のいない朝を日常にしようとする旦那に怒りが込み上げる。そして私を除け者にする朝の音が、深い闇の底へ私を沈めようと企て始めた。光のない孤独な世界。どれだけ声を振り絞れば届くのか見当もつかないほど深い闇の底を見つめていたら、微かに階段を上る足音が聞こえてきた。その足音はドアの前で止まり、今度はひそひそと話し始めた。
「お母さんは?ここに居るの?」
 私の所在が気になって確かめに来た娘だった。
 この子の命が宿る少し前、私は周囲の出産ラッシュに心乱されていた。私たち夫婦も子供を望んでいた。しかし欲しいと望んで簡単に手に入るほど、命というものは軽くない。子供を望む一方で、こんな私に育てられる子供が果たして幸せになれるのかという不安に押し潰されそうにもなっていた。悩みに悩んでも答えは出せず、天にも縋る思いでこう祈った。
ー誰か私を助けてくれる子、来てください。
 祈りが本当に天に届いたのか、妊娠がわかったのはその一ヶ月後のことだった。だからなんだろうか、まさに今苦しんでいる私を娘は気にしてくれている。一筋の光が差したようだった。ただその光も、旦那の一言によって一瞬で遮られてしまう。
「お母さんは病気だから駄目だよ。ほら、下行こう。」
 苦しんでいる私をそっとしておこうと気遣ったのだろう。一見優しさに見えるその気遣いが、緊急事態を知らせるスイッチを押した。気づくと私は腹の底から声を絞り出し、怒りに任せて叫んでいた。何を言ったのかも覚えていない。堪えきれず溢れだした感情が暴走したことで、ようやく閉ざされたままの扉は開かれた。何度訴えても気づいてもらえず、もうどうにでもなれと投げやりになって初めて目を向けてもらえた私の憤りは、もう止められなかった。暴走する私を落ち着かせようと発した旦那の二言目が、火に油を注ぐ。
「じあんが苦しんでるのは、じあんのせいじゃないよ。全部“あの人”のせいだよ。じあんは悪くないよ。」
 そんなこと私だってわかってる。それでもどうしようもなく怒りが湧いてくるのだ。途切れることなく湧き出す怒りが、私を覆い隠す。今日まで苦しみ続けた私の人生が、旦那が放ったたった一つの正論で片付けられようとしていた。その時だ。今まで心の奥底に何重にも鍵をかけて閉じ込めていたあの感情が、遂に顔を出した。
「だったら今すぐあいつを殺して来いよ!」
 叫ぶのとほぼ同時に、次から次へと涙が溢れた。何十年も解決できないでいるこの問題の原因を知っているというなら解決してみろ。そう言わんばかりに泣き叫んだ。けれどその後すぐに、その言葉を放ったことを私は後悔する。部屋の入口で娘が怯えていたのだ。旦那にくっついたまま離れようとせず、私の方を向こうともしない。私の狂ったように泣き叫ぶ姿が、小さな娘にはとてつもなく恐ろしかったに違いない。
ーやってしまった。
 そう思った。一番傷つけたくない人の心に傷をつけてしまった。でも出てきた言葉はなかったことにはできない。残酷だったとしても“怒りに満ち溢れた私”の素直な気持ちだった。

 そうして私は思い出す。“あの人”を死ねばいいと思うほど憎んでいたことを。

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