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ひかげのたいよう#6

“愛に飢えた私”

 “あの人”との出会いは、私が生まれた頃まで遡る。何を隠そう“あの人”とは私の実の母親のことだからだ。“あの人”は自分のお腹に新しい命が宿っているとわかった頃、相手の家族に結婚を大反対される。それでも産むと決めたそうだ。この時宿った命が、私だ。
「あんたが産むって決めたなら、みんなで育てていこう。」
 そう話し合ったんだと、いつだったか祖母が話してくれた。一人で私を育てると決めた“あの人”には、お見合いを勧める話がいくつか持ちかけられた。どの話も断り続けていたが
「奥さんを亡くして、子供三人抱えて、かわいそうな人がいるんだ。」
との誘いに、それまで閉ざしていた心を開いたらしい。お見合い話はうまく纏まり、私は六人家族の次女となった。血の繋がらない父、姉、兄、弟。私たちの歪な家族関係はここから始まった。本当はこの時、オマケがついてきたら相手が良い気はしないだろうと、祖母と私を養子縁組するという話も出ていたらしい。こうした事実の一つ一つが、さりげなく私の心を傷つけていることは誰も知らない。父はこの提案を断った。父のこの選択が良かったかどうかはわからない。それでも、この選択がなければ“今の私”が今ここにいることもなかっただろう。
 まだ細かいことが気にならない年齢だったこともあり、私は血の繋がらないその人たちと本当の家族のように同じ時間を過ごした。喧嘩もするし、ムカついたりもする。アニメや学校の話題で盛り上がることだってあった。私たちを見て、これが本当の家族じゃないなんて思う人はいなかった。そんな暮らしの中で唯一違和感を抱くとしたら、“あの人”の存在以外にない。記憶がある頃から、私たち四人はしょっちゅう“あの人”から怒られていた。逆鱗に触れようものなら殴られることもしばしば。あまりにも力任せに殴るものだから、唇が腫れて病院へ連れていかれたこともある。姉が頬に痣を作って学校へ行くと、先生から呼び出され
「お家で何があったの?」
と聞かれたという。周囲はこの事実を騒ぎ立てたが、私たちはそこまで気に留めていなかった。持ってる服を全部切り刻んで捨てられたり、味噌汁をこぼせば頬が真っ赤になるほど思いきり叩かれる。そんなのは日常茶飯事だ。金属バットで壁をごんごん叩きながら
「さっさとやれ!」
と怒鳴られることだってあった。あれで殴られるのだろうかと怯える私たちを、“あの人”は容赦なく役立たずだと罵る。さすがにそれで殴りはしないとしても、いつも極限まで恐怖を与えて自分に服従させる。どれほどの恐怖を与えているのか知りもせず、いつだって自分は正しいのだと毅然とした態度を見せた。
 成長するにつれて、頭もよく要領もいい私以外の三人は、“あの人”に怒られないように生きる術を身に付けていった。“あの人”の怒りの矛先は自然と私に集中し始め、いつしか暴力よりも言葉で押さえつけるようになった。私は他の三人のような要領の良さを持ち合わせておらず、“あの人”に命令されては逆らった。そんなことをすれば平手が飛んでくるか、如何に私がダメな人間かを延々と説いて聞かされる。二、三時間なんていうのはざらにあった。よくもまあそんなに人を罵って飽きないな、と感心してしまうレベルだ。そんな苦痛を何度味わっても、私は“あの人”の思い通りに生きるのが嫌だった。誰かに決められた人生を生きる為に生まれてきたんじゃないと心のどこかで思っていた。教師になることを志していた“あの人”からしたら、私はふらふら生きているように見えるのだろう。性格がまったくの正反対だったし、理解し合うのは難しかったかもしれない。けれど家族だ。私と“あの人”は血の繋がった親子でもあった。いつか分かり合えるなんて淡い期待を抱いてもなんの不思議もない。ちょうどそんな時だった。呪いの言葉が生み出されたのは。

 オマエナンカウマレテコナケレバヨカッタ

 私を最も傷つけたこの言葉は、淡い期待を跡形もなく踏み潰していった。どうしてそんな言葉が生まれてきたのか理解に苦しむ。“あの人”の不遇な人生を可哀相に思い、受け止めようとしたこともあった。そうやって親の気持ちを理解してあげるいい娘になることで、どうしようもない心の痛みを紛らわすことに必死になった。そんなことをして誤魔化しても痛みが癒えるわけがないのに、そうでもしなければ自分を保っていられなかったのだ。私が過去の痛みを忘れようとするたびに、“愛に飢えた私”はその傷口を何度も抉って思い出させようとした。
『どうして誰も助けてくれないの?ほら見て。こんなに痛いよ。助けてよ。』
 その声に耳を傾けるのが怖かった。その傷の痛みがどれほどのものか知ったところで、助けてくれる人はいない。助けてもらえないのに痛いと叫ぶのは無意味だ。存在自体を否定され、それでも生きていかなければならないという事実が、この先の人生において困難を強いるのだった。殴られたとしても、時間が経てばいずれ痣は消える。だけど心に残った傷跡を癒す方法を、この時の私はまだ知らない。癒えない傷と痛みを抱えながら、これ以上傷つかないように世界と距離を置くこと。それが“愛に飢えた私”にできる、せめてもの防衛策だった。
 恐らく私たちは虐待を受けていた。“あの人”の口から放たれる一言一言が虐待だったのだと確信するのは、何十年も先の話だった。近年では虐待が急増していて、身体的虐待よりも心理的虐待の件数が上回っているとニュースやネットで目にする。虐待といえば酷い暴力を受けていると想像しがちだけれど、言葉で傷つけ縛り付けることも虐待といえるということは知らなかった。そしてこの虐待件数の増加には、コロナ禍の影響が大きく係わっているらしい。私のような、もしくはそれ以上の想像を絶する苦しみに多くの人たちが必死に耐えているのかと思うと言葉も出ない。“今の私”はあまりにも無力だ。その苦しみを誰よりも知っているのに、救い出す術もない。せめて“愛に飢えた私”の心の傷を、これから生きていく人たちの為に役立てることができたらいいのにと何度思ったことか。
ーこんな思いをする人が一人でも減りますように。
 この時の私には、そう祈ることしかできなかった。

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