長所が短所として、足かせになる時

思いや考えと、それにピッタリくる言葉や表現や比喩が比較的得意な人ほど、言葉を発する前に一度立ち止まった方が良いかもしれない。ピッタリであればあるほど、周囲にとって受け入れ難く、鋭く感じ威圧感やマウントだと誤解されている可能性がある。

言語化出来ない思いや、無意識にあるもの。それらは当事者自らが気づく事で初めて価値が生まれる。それは、全ての対話において言えることだと思う。

まさに私のことだけど、子供の頃から国語が得意だった人って、誰もが自分と同じように物事を深く掘り下げて考えたり、言いたい事を言語化できると考えがちで、だからこそ「話し合えば分かり合える」とついつい思ってしまう。でも実際それらは私個人の癖でしかない。

世の中色んな人がいて、人によっては「物事を深く考える」習慣自体無かったり、「深く考えずに謝る、何も考えず体を動かす」「処世術として自ら長いものに巻かれる」ことが生きるための唯一の選択肢という価値観の中で何の違和感も無く過ごしてきた場合もある。

そういう人にとって、私にとっては「日常のこと」でしかない「話し合い」も、話し合う展開になった事自体が不快でマウントを取られたと感じたり、話し合いの場に臨んでいても、自身の考えや思いや事情を言語化する事に慣れておらず、劣等感やストレスを感じるだけ。

私にとっては「日常の光景」でも、別の人にとっては「格下の奴に意見を言わせる自分は舐められている」と劣等感に苛まれたり、生意気、マウントを取られた、ボコボコに傷付けられたと認識する、或いは「なんとなく生意気な奴は今後立ち上がれない程度に予め反撃し潰しておこう」という怒りや不快な感情しか残らないという事もある。

私が普通に自分の意見を言っているのを見て、内容に関係なく「意見を言われる」という事実に傷つく人もいる。そんな生き方の人もいる事に気づいた時、自分はなんて無神経だったんだろうとハッとした。

そういう人にとっては、私みたいな人は理解不能な暴力的な宇宙人に見えるし、ただただ脅威にしか思えないのも仕方ないと思う。

この事を考えるきっかけになったのは、声をかけてもらった会社の中で、自分1人が唯一の経験者であり部外者で、社長を含めたそれ以外の2人は既に学生時代の運動部の先輩後輩という関係性が既に出来上がった中に飛び込む事になり、会話のあり方、人との擦り合わせの仕方においての価値観の差に埋めようがない開きがあって、辞めるという結論を出すに至ったこと。

プライベートと人間関係は合わなければ距離をおけば良い。だけど仕事だとそうもいかない。

仕事の時は無色透明を演じていても、結局今回のように各種SNSまでフォローされると、私の個性が結局バレる。もちろん一番良いのは公私の線引きをする為に会社の人からフォローされない様に煙に巻き、逃げ切る事。

とは言え、フォローされてしまったら仕方ないし、フォローされる度に会社を辞める訳にもいかない。

無色透明の上位下達に染まる事が良い事だとは思わない。前時代的だと思う。でも現実的には今の日本で力を持っている人の大半は年配の男性なのが事実。

だから私は引き続き「言わぬが花」と自分の長所を封印したり殺すことなく、今回出会ったような相手とも共存する為の方法を諦めずに模索し続けたいと思う。

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