『わたしの外国語学習法』(ロンブ・カトー著)を検討する(1)
私は語学を趣味にしているので、どうしたら外国語が上達するかをよく考える。世の中に数多ある学習法についての本も読んできたが、その中でもっとも大きな影響を受けた本を挙げるとするならば、ロンブ・カトー著 米原万里訳『わたしの外国語学習法』になる。
ハンガリー生まれの著者は、大学を卒業したものの、1930年代の不況時においてその学位は大した役目を持たなかった。そのため彼女は外国語を教えることを職業にするべく、自らの外国語学習を編み出す。その後20年のうちに、5か国語の同時通訳者、10か国語の通訳者、16か国語の翻訳者となるほどの外国語能力を身に付ける。著者がどのように外国語を勉強してきたのか、その具体的方法が余すことなく書かれた本である。
著者がそれぞれの外国語に魅せられた経緯、語の記憶や運用のプロセスの分析、通訳者としての失敗談など、読み物としてもおもしろいが、なんといっても肝は題名にもなっている彼女の学習法で、その中で語学学習の教訓を十にまとめた箇所がある。
今日はこの十か条を検討したい。この本が刊行されたとき、スマホやインターネットはもちろんなく、テレビがやっと普及し始め、テープレコーダーが最先端技術という時代だった。全部が全部賛成というわけではないのだが、多言語話者の先人が残してくれた知恵を検討し、あわよくば現代風にアップデートし、自分の学習法を考えるための糧としたい。順に見ていこう。
外国語に毎日触れることが大事というのは実感としても分かる。しかし、語学において継続が重要とはいえ、それも日単位の継続が肝要だという根拠はあまり聞いたことがない。もしも「毎日1時間」と「一日おきに2時間」だったら前者の方がいいということになるが、それはなぜか。「新しく覚えたことを人間がすぐに忘れる」からではないか。昨日覚えたものを自分の記憶のなかにつなぎ止め、維持していくためには忘れてはいけない。もしくは忘れかかっているものをまた呼び戻さなければならない。さもないと前回の復習で今回の勉強が終わってしまう可能性がある。語学はひたすら積み重ねていくものだから、「三歩進んで二歩下がる」を繰り返すよりかは一歩ずつ歩んでいく方が効率的である。「朝学習するのが良い」というのはおそらく、人が睡眠中に記憶の整理をするから、その直後が脳にとってベストな状態であるということだろう。
ロンブはスパルタな方法で外国語を習得したわけではない。根本にあるのは「自分の興味にしたがって勉強する」という一種の快楽主義だ。基本文法や文法の練習問題の有効性は認めても「教科書を相手にするのは、かなり退屈なこと、よくいう、平均以下の娯楽ってやつです」と書いており、苦痛になるようなことを無理にすべきではないと言っている。モチベーションの低下は継続を危うくさせる。机に向かって何かを必死に覚えるだけが語学ではない(むしろそれは語学の中心からはかなり離れているとさえ言える)。今でいえば、机に向かうモチベーションがなくても、ターゲット言語で音楽を聞いたり、youtube で現地のニュースを聞いたりすることはできる。モチベーションには波があって、「文法書は読む気にならないけど Duolingo ならできる」みたいな日は必ず訪れる。そういうときに学習を放棄せず、ハードルを下げてもいいから踏みとどまれるかが継続の分水嶺だ。
これは記憶の仕方についてのアドバイス。言葉というのは文脈のあって初めて輪郭が見えてくる。ある語を覚えるためには、その語を関連付けて覚える方法が有効だ。私が単語帳を使って語彙を増やそうと思わないのもこの点にある。手短に言えば、単語帳は実際の言語使用から切り離されているからだ。仮に例文や類義語がたくさん載っている単語帳であっても、もっと大きくて気持ちが向く文脈のある記事や物語のなかで覚える方がいい。定着度がまるで違う。
これはあまり意識したことがなかったが、汎用性の高い熟語を優先的に覚えよということ。前項と内容が被るが、熟語はそれだけで最小限の文脈を内包しており、それを覚えることで表現の幅がぐんと広がる。ひとつひとつの語よりも慣用句のようなものに注意を払うべきというのは、記憶の容易さ、その運用のしやすさの点からいっても頷ける話だ。
これも学習法として時々聞かれるが、なかなか難しい。ちょうど先日、お風呂で「今日はドイツ語で100まで数えたら出よう」と思って、実際にドイツ語で数えてたら、ゆっくりになりすぎてのぼせてしまったばかりだ。この場合は訳すのですらなくて、数字を数える練習だったのだが。ただ日常生活で自分の気持ちにひっかかった日本語はなるべく面倒がらずに辞書を引くようにしている。そして、そのまま外国語の辞書に移動して、その外国語で言うならばどうなるのだろうか、と考えて辞書を行ったり来たりするようなことはしている。常に別の言語での表現の可能性を探ることが、その言語の運用力につながる。「X語で何と言うだろう」と考えることが「頭休め」になるほどにはなかなかならないが、アウトプットの前段階としての思考を習慣づけるという意味で有用なのは間違いがない。
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