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興行師の興業史

割引あり


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今人気のお笑い芸人にはとんと疎く全編視聴していないため、文脈に誤読やねじれがあれば令和ロマンの弁士のかたや関係各位に大変申し訳ないが、彼の指す「資本主義」とは「興行師が中央の放送メディアへ芸人を注ぐようになった」の意だと思う。それ以前から地域興行や巡業手配師として商業資本主義は1900年代初頭からあるから。

1900年代初頭からこちら、あれやこれや商売の手法を変えずっと「資本主義」であり続けている。資本主義を「国家統制ではなく、営利目的の個人所有者たちで制御される政治経済の体制」と定義するならば。


興行師が囲い込むまで、芸人は河原乞食と揶揄されて今でいう個人事業主で社会地位が低かったんだよね。

宇多田ヒカルが「祖母は瞽女(だったか浪曲師だったか)で旅回りのドサで苦労し、芸能に携わる人は大スターとかではなくて、社会の比較的底辺に居るとても貧乏な、立場のあまりない不器用な人たち(という認識で芸能というものを躾けられている)(『文學界』2020年1月号)」と、対談でたしか語っていた。

興行師が芸人を仕切り囲い込むようになる1900年頃まで、落語の中の幇間の振る舞いや『軒付け』などからも窺い知れるように、演芸場やお座敷からお声がかからなければ、大道の辻芸人として道行く人の投げ銭で日々をしのぐのが芸人の生きざま。
故桂米朝が四代目桂米團治へ入門時「芸人になる以上、末路哀れは覚悟の前」と諭されたと残している(『落語と私』1975)のも、芸人風情は堅気にまともな死に方をできない覚悟を偲ばせる。なお四代目桂米團治の活動期は1910~1940年代、興行師が芸人を囲い込み始めた時流のさなか修業時代を過ごした人だ。

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寄席の定席は、帝都東京・京都・大阪の旧三府にしかなかったそうだ。
連日興行をかけ客の入りがありビジネスとして成り立つ規模で人口密集し都市形成できているのが、その3拠点ほどしかなかったのだろうね――尤もその頃から地方都市にも芝居小屋はあったらしいし、優生思想も手伝ってスポーツが娯楽化し野球観戦/登山/海水浴などがレジャー化しだしたのもこの頃から。

そんな興行師に福音アイテムが輸入される。
映画だ。
大きな暗室と映写機さえ用意できれば興行できた映画は、ほんの10年ほどで瞬く間に全国の都市へ普及する。

その後1950年代が日本での映画全盛期、1980年代頃がテレビ最盛でタイアップ・イベント花盛りになるのは、ご周知のとおり。
芸事も楽士も運動選手も、放送メディアと企業広告スポンサーのお金の流れへゴッソリと呑み込まれてゆくんだ。



これから50年ほどは放送メディアからネットへ、芸人/演者/アーティスト/アスリートの流行り廃りも移るし、興行師の商売技法も資本主義内でまた変わり続けるんだろう。

20年ほど後
「昔はなぁ。テレビさえ押さえれば多少の大根役者やポンコツ芸人でも、売り出せたなぁ。ネットからこっち、手間と銭かかるようになっちまったなぁ」
の興行師/手配師/イベンター/取次代理店あがりのジジババがボヤく姿までは、今時点ですら容易に想像できるねえ。





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