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短編小説「水槽と起床」

朝を迎える時、いつも最初に心に去来する「何か」

この日の朝、彼の心に最初に去来したのはA子のことだった。

朝を知らせるつんざくアラーム音を停止した時、携帯のディスプレイを確認するがそこに彼女からの返信はなく、その代わりに上司からの連絡事項がつらつらと並べられている。

強張った体を緩めようと軽く伸びをすると、ベッドが悲鳴のような軋みを鳴らす。

それに共鳴するかのように彼も何となくため息を漏らした。

ベッドから起き上がり、気怠げに力の入らない体を洗面台へ動かす。

そこでの歯磨きの合間に彼は昨日、A子に送ったメッセージを思い返す。


『今日はありがとね!また時間あるときにどこかに行こうよ!』


彼女にメッセージを打ち込むとき、なぜいつもキザったらしい文面になるのだろうかと疑問に思う。投げかける言葉はもはや会話ではなく継ぎ接ぎで練りこんだセリフのようだ。

彼女と知り合ってから1ヵ月が経過しようとしているが、未だに彼女の前に存在しているのは「俺」ではなく、「僕」であることに彼は気づいていた。

昨日、初めて一緒に外へ出掛けたときにもどこか他人行儀になってしまい、彼はどうにかA子との距離を近づけようと、まるでラジオの周波数を合わせるように彼女の声や動き、目線に、彼自身を摺り寄せようとしていた。

だが彼女に周波数を合わせようとすればするほど、二人の波長にノイズが上書きされていくような感覚に囚われた。

出先に訪れた水族館で、彼は青々とした水槽を自由に泳ぐ魚について得意げな印象を与えぬよう、しかし興味を駆り立てるような口調で彼女に語った。彼女が以前、魚を見に行きたいと普段の様子とは違った熱量で彼に話しかけていたからだ。

しかし彼の説明を聞いても、A子は薄く口角を上げ、まるで聞きかじったばかりの知識を披露する子供の説明を気だるげに聞き流すような目をして、彼自身と魚を交互に見つめるのみであった。

彼はしまったと思いつつも、開いた口を一息に閉じるわけにもいかず、彼女の様子に気を配りながらまた口調を徐々に変えていった。

結局、彼らは水族館を出た後に別れて帰宅することになった。

彼はA子を彼女の家まで送ったが、彼女から言葉を発することはついぞ無かった。


彼はぼんやりとした頭のもやを振り払うように歯磨き粉だらけの口をゆすぎ、顔を洗う。

ふと、鏡を見ると、昨日のA子が浮かべていたような顔が浮かんでいることに気が付いた。



次に彼の心に浮かんだのは彼自身の「家族」ことであった。

トースターで焼いた2枚のパンに齧りながら、地元の高齢者用のアパートで二人暮らししている両親、家庭を持ち、5歳になる息子を抱える姉。この前に大手企業に内定を貰い、就職活動を終えた弟。それらが代わる代わる彼の心に去来する。

最後に家族全員で集まったのは去年の年末。年越しを一緒に過ごそうという両親の提案から、兄弟全員が地元に帰省してきたのであった。

両親は数年ぶりに一堂に会した兄弟たちの顔を見ることができたことを喜んでくれた。しかし兄弟達側は最初こそ、彼らの近況や普段から抱えているであろう愚痴に花を咲かせていたが、時間が進むにつれて以前とは異なった「他人」に変化していることに気が付いた。

互いの「変化」と「齟齬」は受け入れられないものではないにせよ、A子と同じようにノイズがかかってしまっていたように彼には感じられた。

人との間に介在するノイズ。いつから調整に失敗してしまったのだろう。

それは恐らく、この世の誰にでも答えられない問いであった。彼自身もそれには気づいていた。


ふと壁の時計に目を移すと、思ったより時間が経ってしまっていることに気づく。少し急ぎ目にトーストを飲み込んで、くたびれたスーツに袖を通す。

いつもの革靴を履き、いつもの玄関扉のドアノブに手を掛けたところで、何かを忘れたような気がして不意に後ろを振り向く。


いつからか窓から入り込んだ朝日がワンルームの彼の部屋を照らしている。しかし、その光は彼がいる玄関までは達することはなかった。


彼は水族館で観た雑多な魚たちの入った水槽を思い出す。


薄く光の入ったもやの中で彼らは自由に泳ぎ続けていた。






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