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その夜――。

早々と芽吹きだした新緑が、河原での煮炊きや明かり取りの火に鮮やかに映えていた。あちらこちらの疎らな炎に、揺らめく柳や葉桜の蔭。その合間を縫うように式刻座に近づいてゆく一人の男がいた。蔭から蔭へ。そして小屋の裏口の幕へ向かう。

「氷時!誰か来た、小屋のほうだ。裏口に入ろうとする気配がある。僕の式達に近づいているみたいだよ」

「よし、蛍!」

帰宅していた二人は即座に、いつも寛いでいる縁台から奥の部屋に移り、まず灯りと自分達の気配を消した。そしてそこから家中の戸という戸を一斉に音も立てずに閉じ、静かに潜みつつ小屋の様子に気を研ぎ澄ませた。氷時の式である蛍も同時に、姿を消して小屋に飛ばしてある。

「いやあ、ここいらは旨そうな匂いがするなあ。そこの娘さん、ちいと小屋にお邪魔させてもらいますで」

男は軽く酔った河原近くの者を装って、小屋の裏の幕を覗いた。しかし眼が、全く酔っていないどころか厳しく見渡すように細められている。

「ここが噂の式刻座やらかあ。娘さん、あんたも踊り子さんかい」

「はい。あなたはどちらさんで?」

式は、時雨が仕込んでおいた通り自然に振る舞った。蛍も今日は豪華な小袖ではなく女武者のような軽装で姿を隠して見守っている。

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