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「バブルフラワー」△完▽

 ヤな気分になるのは、父さんや親戚連中に対して僕が陰険になることだ。自分でも困惑するくらい執念深く偏狭になる。相手の方が間違っているんだと証明したくなってしまうんだ。
 父さんや親戚の人たちは、彼らが正しいと思う生き方を軟弱な若造に勧めてくれているに過ぎない。それは愛だし、いつだって彼らは彼らなりのやり方で愛を与えてくれていた。僕がそれに対してツンケンしたり、みぞおちがぎゅっと痛くなったりするのは、彼らの示す愛が自分好みじゃないっていう勝手な我儘だ。
 彼らからすれば、僕は相当危なっかしく、弱く、軽薄に見えることだろう。僕にとって彼らが、他者の視線や常識に囚われているせいでデリケートで不自由に見えているのと同じくらいに。互いに相手を少しでもサポートしようとしているんだから美しいはずなのに、互いに余計なお世話だから醜悪になる。あまりの滑稽さに涙ぐみそうになるね。
 血縁関係者の御方々の前で、僕はこう心の中で唱えるようになった。
 「Thank you, bat No thank you.」
親の理想通りの人間じゃないことに人は罪悪感を抱く。周囲にいる人たち、親類や子供やパートナーの期待に応えられない、そんな心苦しい気持ちを感じたことが無い人がいるだろうか。でも、僕はもう罪悪感から逃れようとするのは止めることにした。
 「ごめんなさい」
 「ごめんなさい」
 「こんな僕でごめんなさい」
 心の中で何度も何度も謝った。泣いて、泣いて、泣いて。
 そして決めた。これからは正々堂々と薄情になってみようと。どんなにお世話になったって、どんなに愛情を注いでもらったって、他人の好みは他人の好み。僕には関係ない。他人のやりかたでは生きられないよ。だって、生きているってことは、死に向かっているってことじゃないか。自分を優先させて当然だ。今はまだ自分だけで手いっぱいだから、他人を満足させるために使えるエネルギーが無いだけなんだ。
 子供の頃、こんなことがあった。サラダのキュウリを切る手伝いをする時に、思いつく限りの形のキュウリを作りたくて、いろんな切り方を試すことにしたんだ。面倒臭そう?その通り。
 父さんは僕が手伝いをすると必ず、ありがとう助かったよって、言ってくれていた。だから子供時代は気づかなかったけど、子供のお手伝っていうのはそもそも親が一人でやるのに比べて時間も労力も余計にかかるものなんだよね。
 で、件のキュウリの時なんて本当にとーっても時間がかかった。角切り、輪切り、細切り。こうしたら?ああしたら?試行錯誤しながら、ちまちまちまちま切っていくわけだ、五歳児が。
 ありがたいことに父さんは何も言わず、当然の事みたいに受け入れてくれたけど。お陰で楽しかった。やってみたいと思ったことをやりとげて大満足だった。
 一方でこんなことがあったのも覚えている。小学生の頃、美術の時間に描いた絵を先生に見せにいったら、
 「これはこれでいいけど」
 と言って、先生はおもむろに筆を取り、
 「こんな風に色に濃淡をつけるともっと良くなるわよ」
 と、ぽんぽん色を重ねだしたんだ。
 ああ、もちろん、アドバイスだよね。こうするともっと素晴らしくなるわよって、優しさだ、親切心だ。人生経験豊富な相手からの教えだよね、分かっている。でも、す、ご、く、ショックだった。もちろん子供の描いたお遊びの絵だけれども。
 「他人の作品にそんな勝手に!」
 と思ったし、なんと言ってもその絵は水彩絵の具で淡く淡く塗りたかったんだ、当時の僕は。それがその時、したいことだった。
 「こうするともっと能率がいいよ」
 「こうするともっと楽だよ」
 「こうするともっと得するよ」
 「こうするともっと誉めてもらえるよ」
 賢い人は、賢いやり方を教えてくれる。手早い人は、手早い方法を教えてくれる。でも人間って、自分のやりたい方法でやらないと、何百回成功したって、ぜんぜん満足できないんだ。
 「ご提案、ご忠告、どうもありがとう。でも、わたくしめは違うやり方でやってみまーす」
 そんな感じで行こうって決めた。これ、「ありがとう」を伝えるのがポイントだって思うよ。「いらない」だけしか言わないのと、「ありがとう。でも、いらない」では、感じが全然違うもんね。
 あえて断言しようじゃないか。人類総お節介だと思った方が良い。
 全員が自分のやり方が正しいと思っている。そしてそれを、他の人にも徹底させたいと願っている。できることなら世界中の人に、自分にとっての正しさを徹底させたいとすら思っている。それがとことん醜悪になると、相手を痛めつけてでも、尊厳を無視してでも、殺してでも、徹底させようとする。
 僕も相当なお節介だ。なぜ父さんに苛々するのか。親戚の人たちを責めたくなるのか。彼らが僕とは違う価値観を持っているからだ。僕の思考回路の方が優秀だと思っているからだ。僕のやり方の方が良いのに、とか思っているからだ。お節介だからだ。
 他者に苛々するのは、相手にとっての正しさや常識が趣味に合わない時。だから僕は、誰かに苛々しだすと、必ず心でこう唱える。
 「このお節介ジジイ!」
 お節介野郎でいいんだけど、なんとなくお節介にはジジイかババアが続く方が合う気がしない?
 「お節介ジジイ!お節介ジジイ!お節介ジジイ!」
 何度唱えてもまだ気持ちが収まらず、裁判で戦う弁護士のごとく相手の非を訴える言葉が頭の中で組み立てられはじめたら、次はこれだ。
 「陰険!陰険!陰険!陰険!陰険!」
 大抵はこの辺りで我に返ることができる。他人の振る舞いや物事の解釈を自分好みにしたいだなんて、そんな自分に心底うんざりするよ。隣人の物音や、レストランのメニューや、ネットのゴシップに対してさえ注文を付けたくなることがあるんだから、本当に僕って暴君も良いところだと思う。

           ・△*◆-●▽▲▽・△◎

 それはとてもとてもとても寒い日だった。雪を降らせたくてたまらない空が、思案顔で地上を見下ろしていて。
 父さんに対する罪悪感は、もちろん祖父母やロビン伯母さんに対する思いの比じゃないことは想像がつくだろう。男手一つで育ててくれたって言うのに最低の息子だ。 
 「僕には僕の人生があるのだ」
 なんて強気な時もあれば、
 「なんとか上手くやれないものかな」
 と思うこともある。たまに雲が晴れるみたいにすごく父さんに優しくしてあげたくなることもあって、そんな日には父さんの住んでいるマンションに行く。帰り道はいつも少し落ち込んでいるけど。
 父親を一生怒らさない才能が得られるならばどんなにいいだろうと思う。人が怒るのは傷ついたか、もしくは古傷がぱっくり開いたかのどちらかだ。だから、誰かが苛々していたり怒ったりしている時は、傷つけられたと感じているか、古傷を刺激されたかのどちらかってこと。父さんを怒らせることが悲しいのはそのせいだ。僕の何らかの言動や、価値観や、趣味嗜好や、生き様、在りようが、父さんを傷つけたり、古傷を開かせたりしてしまっているってことだから。そんなの、まるで本意じゃない。
 暴君的であるとは言え、家族や友人の間でのお節介の底の底の底の底には、愛があるものなんだろう。どんなに見つけにくくとも、ね。父さんや親戚の人たちが僕にごちゃごちゃと自分の生き方を真似させようとするのだって、僕にできる限り傷つかないで生きて行って欲しいと思うからなんだって、今なら良く分かる。
 僕が父親にお節介を焼きたくなるのも、もう二度と傷ついて欲しくないからなんだ。過去の怒りを捨てて、他者への批判を放棄して、もっと楽に生きようぜって。お節介だよな、本当に。父さんには父さんのタイミングやプロセスがあるだろうに。なんて自分本位なんだ。
 その日は父さんのマンションからバイクで帰る途中でカフェに寄った。あまりにも身体が冷えきっちゃったし、ちょっと気分転換もしたかったから。真っすぐ家に帰りたくない気分ってあるじゃない。温かいココアを飲むと、少し慰められるような感じがしたよ。
 今でも自分はバカらしいことしていると思うことがあるし、すべての人から無視されるくらい無価値な人間だと思う日もある。
 でも、楽になりたい。僕はただ、それだけを求めているみたいだ。楽になりたいなんて、罪人みたいな言い方だ。でも実際、自分や他人への「こうあって欲しい」という思いは、僕にとっては囚われ以外のなにものでもなくて、苦しくって仕方ない。
 楽になりたい。
 楽になりたい。
 恨みも、怒りも、もう苦しい。
 こんな気持ちを誰かに理解してもらおうなんて思うことだけは、止めようと思う。僕は誰かが理解できた試しがないんだから。
 理解してもらおうとするともどかしいし、相手を理解しようとしても自分の感覚と合わなければ苛々してくるんだよね。だからもう、人間って理解し合おうとしなくていいんだと思うな。だって、理解できなくても、愛せるんだもの。
 僕は、毎日心の中で繰り返す。
 「どうか両親を許せますように」
 「どうか両親をありのままに許せますように」
 「どうかあの人たちを、僕から解放できますように」
 どうやらその日、僕のそんな祈りが届いてくれたみたいだ。
 白い息を吐きながらカフェを出ると、オレンジ色の電話ボックスが目に付いた。今時珍しいなって思いながら近づいて、なんとなく興味本位で中に入ってみた。するとベルが鳴り出すじゃない。スパイミッションとかだったらどうしようってまず思ったんだけど、勝手に身体が動いて受話器を手に取っていた。
 女の人の声がした。ねえ、誰も信じないかもしれないけれど、それは僕が生まれた日の母親の声だったんだ。彼女は少し眠そうに、赤ん坊の僕に話しかけていた。とても嬉しそうだった。幸せそのものの声だった。
 子供を捨てたことを後悔して、後悔して、後悔して、一生、後悔し抜いて欲しいと思っていた。自分のしでかした最低の行為にどん底まで落ち込んで、自分を責めて、責めて、責めて、責め続けながら生きていて欲しいと思っていた。でも、なんだか恨んでいるのがバカらしくなった。彼女が自分の生き方をどう感じるかは彼女の問題であって、僕がどうこう言うことじゃない。
 すべての人をゆるしたい。
 自分のすべてをゆるしたい。
 他者のどんなこともゆるしたいよ。
 楽になりたいから。
 この惑星を愛したいし。
 この惑星の平安を祈りたい。
 僕は楽になりたいんだ。
 何もかも祝福できると良いのに。
 そしていつか、自分の死さえ、愛する人の死さえ、祝福できると良いのに。
 甘えた人間の綺麗事だろうか。それでも良いよ。思いこみや信念によって人生の味わいが決まるなら、僕は自分好みの味付けを選びたいな。
 オレンジ色の電話ボックスから出てふと仰ぎ見ると、空はクジラの腹のように深い濃紺で、新月間近のほっそりとした三日月が浮かんでいた。
 バイクまで歩きながら、僕は屋根や、木々や、大地や、アスファルト道が、まるで雪が降り積もっているかのように虹色の透明なゼリーのような光の層で覆われていることに気がついた。
 僕は足を止め、目を凝らし、その虹色の透明ゼリーを眺めた。
 ああ、恐らく、高速道路の上空数百メートル、雲の谷間のどこかで夜間飛行の飛行機にでもあたったのかもしれない。バブルフラワーの泡の花びらが弾けたんだ。 
 虹色の透明ゼリーはやがてそれぞれの物質のなかに染みいり、それぞれの物質の中で再び球の形になって虹色に発光しはじめた。世界が絶えずこんな風に虹色のパルスを発していることを、僕はその夜、初めて知った。
 世界を、他者を、自分を、もう少し信頼してもいいのでは?僕はそう思った。甘い甘いココアの匂いが、いつまでもこの夜のことを思いださせてくれるだろう。

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