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「ドールハウスの幽霊/The Phantom of the Dollhouse」7

 セミナーからの帰り道、ジェニィは街ゆく人々の姿を目で追った。彼女の気のせいかもしれない。みんなが以前よりも自分の体型を楽しんで洋服を着こなしているように見えた。そう思って人波を眺めると、ジェニィの中に、どこか誇らしいような、暖かな気持ちが芽生えてくる。一人一人が持つカラフルな個性を見るのが好きだった幼い頃の感覚が、自分の中に戻ってくるのを感じた。
 渋合駅にたどり着いたジェニィは、駅前で選挙演説をしている若い男性の前を通りかかった。普段ならさっさと通り過ぎるジェニィだが、何故か気にかかり、演説を聴く人の輪の中に加わった。仕立ての良いスーツを着た男性は、国会議員選挙の立候補者らしい。
 若者の演説は、パッとしないありふれたものだった。彼は声を張り上げ、時代を憂いてみたり、人々を鼓舞してみたり、ライバルの候補者を罵倒したりした。けれど、この日の彼女には、そのごくありふれた選挙演説の中に悲しみが溢れているように感じられる。ジェニィの目には、いつの間にか涙があふれてきた。自分に取り憑いていた『正しさ』と、ついに対面したような気がしたのだ。
 声を枯らして叫び続ける若者の姿が、不意に自分の父親と重なった。
 「ああ、パピィ…」
 ジェニィは、父親が自分より高級な車を持っている人を見る度に傷ついていたことを思い出した。
 「貴方にとっては、役職名や家や車が、自分がいかにグレートであるか立証してくれるものだったのね」
 ジェニィの大きな青い瞳から、もう一筋涙がこぼれ落ちた。
 「むなしすぎる…」
 気づけば、演説をする若い男の前に無意識に躍り出ていた。そして、慌てて身構える男性を、彼女はやさしく抱きしめた。
 「競い合う必要なんてありません。証明する必要がないんだから。この国にも、あなたにも、良いところはいっぱいあるわ」
 ジェニィはにっこり微笑み、怯えきった表情の若者を放した。天使のような容貌をした女が、天使顔負けの『きれいごと』を言って去っていくのを、選挙演説に集まった人々は半ばあきれながら唖然と見つめていた。
 ジェニィはその日、中貝黒にある自宅マンションにまっすぐ帰らず、久々に実家に立ち寄ることにした。自分は誰より『正しい』のだと思い込みたい弱さを抱えながらも、パピィもマミィもわたしを愛情いっぱいに育ててくれたわ。そう思った彼女は、二人にとても会いたくなったのだ。
 確かに、娘を無意識に自分の枠組みに合わせてコントロールしようとしただろう。けれど、普段は明るく、優しく、ジェニィを見守り育んでくれたステキな両親だった。彼らが暖かく安全な家庭を、彼女に与えてくれたことは間違いない。そして時には、それはごくごく稀なことだったかもしれないが、完全に無条件の愛をジェニィに示してくれることもあったのだ。
 ジェニィが帰省すると、ジェニィママとジェニィパパは大喜びだった。ジェニィママは腕に縒りをかけてとても三人じゃ食べきれないほどの豪勢な夕食を作ったし、子供のように浮かれたジェニィパパは、記念日でもないのにとっておきの最高級ウイスキーを開けた。 
 ジェニィはその夜、両親の熱烈な懇願に負けて実家に泊まることにした。実家の自分の部屋で寝るのはそれこそ数年ぶりである。ジェニィママはいつでもジェニィが帰ってこられるように、部屋を綺麗に保ってくれていた。シャーベットオレンジに黄色い花柄の壁紙や、ピンク色のカーテン、白い家具。ジェニィの目には、何もかもが自分との再会を喜んでくれているように見えた。
 ジェニィがお気に入りだった絵本を本棚に見つけ懐かしんでいると、部屋をノックする音がした。
 「なあに?」
 ジェニィは髪をかきあげ顔を上げる。扉から顔をのぞかせたのはジェニィママだった。
 「シャワー先に済ませちゃって」
 「わかった。ありがとう」
 「どう?久々の自分の部屋の居心地は」
 「最高!頻繁に掃除してくれているんでしょうね。出ていった日より綺麗なくらい」
 「そうかもね!」
 二人は顔を見合わせて笑った。部屋を見回したジェニィは、ふっと箪笥の上のドールハウスに目を留める。
 「ドールハウスも懐かしいなぁ」
 「これも古びていないでしょう?わたしがちゃんと手入れしているから」
 ジェニィママはにっこりと笑う。
 「マメに磨いているのよ。イスもテーブルも、一つずつね」
 ジェニィは驚いてジェニィママを見た。ジェニィママはその顔を見て嬉しそうに笑い出す。
 「当たり前でしょう!こういうのってね、すぐに埃がたまるのよ。もう習慣になっているから、面倒だとも思わないけど」
 「ありがとう…」
 ジェニィはそう呟き、しみじみとドールハウスを見つめた。子供の頃は怖かったドールハウスが、今はむしろ誇らしかった。そのドールハウスから、母親の愛情があふれているように感じられたからだ。


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