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その「すみません」は誰に向けて?アレルギーはやましいことではないはずなのに。

すみません。

おそらく私が会食で1番いう言葉。食べれなくて、気を遣わせて、いつもいつも…そんな言葉が頭につく。すると決まって帰ってくる。

大丈夫だよ、でもぶっちゃけ好き嫌いじゃないの?
俺も/私もアレルギーはあるよ。
俺ら/私らの時にはアレルギーなんてなかったよ。

コミュニケーションの1つとして、場の空気を和まそうとして、もしかしたら私に気を遣わせないために言っているのかもしれない。何度も何度も自分に言い聞かせて、1番嫌いな張り付いた笑顔と気丈に振舞う声はこの数年で身についたスキルだ。そんなにいうほど誰も気にしていないと思うかもしれない。そうやっていうから感じるだけで自己満足でうぬぼれだと思う人もいるかもしれない。確かにそうだ、私は私を追い込んでいるのはおそらく事実。

もっと優しい人はこういうんだ。

アレルギーはあなたのせいじゃない、って。気づいているかな、誰のせいでもないことのほうがしんどいことを。何かに原因と結果を繋げられる方が人生は楽だってことを。

男がいて、女がいて、うまく表現できないともどかしく感じる人がいて、若くて年を取っていて、肌の色が違う。生きてきた時代は1980年代ではなく2021年、多種多様が叫ばれるこの世の中で拭い切れないものは何だろう。

私たちは小さなころから色々な教育を受けてきた。「人が嫌がることはやってはいけません。」「自分がされて嫌なことは、相手にはやらないようにしましょう。「自分が嬉しいと思うことを、相手にもしてあげましょう。」確かにそうだ、でもこれは上っ面じゃないのかと思い始めたのもここ最近。この言葉たちに悪意はないし、真意であるとも思う。だけど何かが足りない。

行間を読む。

その笑顔の裏に、その声の裏に、その人は泣いていないか?怒ってはいないか?相手を思いやるそのエッセンスがきっと足りないんだ。構ってほしい人もいる、放っておいて欲しい人もいる、笑いながら心をすり減らしている人がいる。「空気を読む」という言葉が流行したけれどそれは忖度に近いものだと思う。空気を読んでも、見ることはできない。感じることもできない。

その行動の、発言の、行間を読んでいける社会になるといいと切に願う。行間は文字だけではない。空気の間合い、言葉のタイミング、そして行動の選択。どうかお願いだから、多数の1人としてみないで1対1で向き合ってほしい。

これを食べて今すぐ死ぬわけじゃないかもしれない。目に見える症状が出ないかもしれない。もっと言えば検査をしても数字に表れないものだってある。あなたに迷惑をかけることもあります、ちょっとだけ我慢してもらうこともあるかもしれません、もしかしたらやっぱり「すみません」と言ってしまうかもしれません。

どうかそんな時は「何食べる?選んでいいよ。」そんな風にフラットな返事を下さい。誰も責めず、責任の所在地もはっきりさせず、たとえ私が笑っていても、その傷をガーゼで覆ってください。もしこらえきれず泣いていたら、ハンカチをください。胸を貸してください。12時間後にはきちんと笑えています。


2021年はもう少しだけ進んでいると思っていた。アレルギーは病気ではないかもしれない、でも好き嫌いではない。泣いて喜ぶほどに好きなものが、生きていくのに食べていきたいものを、ぐっとこらえるしかないこの日々を過ごす私もあなたも、もう少しだけ生きやすくなるといいな。



世界は思っていたより、まだまだ生きにくい。


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