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影女


この話には、貞子のような怖い幽霊やインパクトのある怪異などは出てこない。
ものすごく怖い話かと聞かれたら、そうでもないかもしれないし、なんならオチすらもない。
ただただ、ひたすら不可解なだけの話。

これは今から、20年ほど前。
当時、俺は二十歳かそこら、プロのミュージシャンになりたくて、アルバイトと音楽活動で日々を過ごす生活をしていた。
そんな中、とあるプロアレンジャーの方が目にとめてくれ、その方に師事することになった。
勿論、毎月月謝は払う。
先生のLIVEの手伝いを頼まれることもしばしば、しかし、労働はボランティアで交通費は自腹。
その上、先生のLIVEのチケットも、自腹で購入しなければならない。
それをした上で、毎月一曲、楽曲を提出し添削してもらうという形式だった。
今思うと、ちょっとひどい話だ(笑)
生活は苦しい。
ただ、夢だけが支え。

そんなある日、先生のLIVEの手伝いに行くと、現場に見たことのない奴がいた。
年齢は俺と同じぐらいかちょっと上。
髪を青く染め、口ピアスをした、すらっとした細身でなかなかのルックスの男性。
彼の名前は、キヨ(仮名)。
俺と同じ、先生に師事したプロミュージシャン志望者だった。

派手な見た目に反し、やけに陰気で、他人と関わりたくないオーラをみゅんみゅん出してる。
はっきり言うと、第一印象はあまり良くなく、ひたすら無愛想な奴。
ミュージシャンなんて、変わり者が多く、キヨみたいな奴は他にもいるので、キヨの無愛想さは気にしないことにして、その日俺は、ただ、黙々とLIVEの準備をした。

そこから、キヨとは、先生のLIVEの度に顔を合わせるようになり、まともに口を聞いたのは最初の出会いからしばらく経った頃。
都内某所のLIVEレストランで、先生の手伝いをした時。
レストラン裏の喫煙所でタバコをふかしてしたら、そこに、キヨがやってきて、俺の隣に立つと、無言でタバコに火をつけた。

ほんとに無愛想な奴だな…とか思いつつ、無言で気まずい雰囲気が苦手な俺は、そんなキヨに声をかけた。

『今夜もお疲れさまでーす、キヨさん、どこ住みなんすか?』

キヨは、何故かちょっと驚いた顔をして俺に振り返ると、思いのほか、気さくに言葉を返してくれた。

『新宿だよ』

『え?新宿!?家賃高くない?!』

俺が驚いてそう聞くと、キヨは、なんとも形容しがたい変な笑い方をして

『そうでもないよ』

と答えた。

当時キヨは、新宿にある、まるで時代に取り残されたような古いアパートに住んでいた。
家賃を聞いてみたところ、ほんとに破格だった。
俺が住んでた横浜のアパートが、1Rで60000円もしてるのに、キヨのアパートはその半額。

思わず俺が、

『俺もキヨさんのアパートに、部屋借りようかな?』

と言うと、キヨは即答で

『やめたほうがいいよ!』

とちょっと強い口調で答えてから、言葉を濁すようにこう続けた。

『とにかく古くて、来年辺りには取り壊すらしいから、家賃安いんだって言われたから…』

『ああ、そうなんすね、残念』

キヨのなんともよくわからないその反応に、俺は一瞬戸惑ったが、このまま無言になるのも気まずいんで、ひるまず話かけた。

『キヨさんは、どんな音楽演(や)るんすか?』

『僕ね、林檎が好きでさ。
林檎みたいな音楽作りたいんだよね』

『林檎!確かにそれっぽい!』

林檎とは、言わずとしれた椎名林檎さんの事。
尖ってて、パンクで、破壊力があり、そして色気のある彼女の音楽は、当時、俺も大好きだった。
それがきっかけで、俺とキヨは、なんだか仲良くなっていった。

当時はガラ携の時代で、携番を交換し、バイトの合間にたまに会って、音楽の話やら身の上話やら、色んな話をした。
キヨと俺は、なんとなく身の上が似ている気がした。
キヨは、秋田から東京に出てきて3年になるという。
歳は、俺より一つ上だったが、慣れてからは、俺はキヨにタメ口だった。

当時、今のようにインターネットも普及しておらず、DTMをしようにも、機材にそれなり金をかけないと曲の作成もできない時代。
だけどキヨは、作曲活動に必要な機材をしっかり持っており、歌は唄わず、ギターとシンセを駆使して音楽を作っていた。
キヨはバイトで、ホストクラブのボーイをしていたらしいので、普通のバイトをするより少しだけ金回りがよかったようだ。

『僕、ボーカルできないからさ。
ZERoくん、今度、僕、曲作るから歌ってよ』

そんなことを言ってくれるようになるまで、キヨと俺は仲良くなり、ある日、お互いの曲を披露しようと安いスタジオを借りた。

だがその日、キヨは、何故か浮かない顔をしていた。

『キヨ、どうしたん?』

思わずそう聞いた俺に、キヨは、スタジオの椅子に座りながら、なんとも形容しがたい複雑な表情をして、言葉濁しながら言った。

『昨夜さ…僕のこと可愛がってくれてたホストがさ、飛んじゃったんだよね
ごめん…なんか気分落ちちゃって…』

『飛ぶ?』

『うん…売掛回収できないと、飛ぶ人いるんだけど…
その人、そこそこ売れてたのに、なんか太客が飛んだみたいで
その人まで飛んじゃってさ…
……僕のせいかも』

キヨの話によると、客やホストが飛ぶことはよくあるそうだ。
しかし、何故、それがキヨのせいだと言うのか、俺には理解できなかった。

『なんでキヨのせいなの?キヨはボーイじゃん、関係ないじゃん』

俺がそう聞くと、キヨは、相変わらず変な表情をしながら、ごもごもと口ごもりつつ、答えてくれた。

『いや…実は、これで三人目なんだ…
変なんだよ…
僕を可愛がってくれるホスト、なんか、みんな飛んじゃって』

『なにそれ?
よくあるんだろ?ホストが飛ぶの?』

『そうなんだけど…なんて言うか…』

キヨは、しどろもどろ不器用に説明する。

キヨの見た目は派手だった。
それに反比例して、口が上手い訳でもなく、地元が秋田県で訛りを気にしてることに加え、家庭に複雑な事情があって自己肯定が低いと自称していた。
見た目が良いからか、店のホストやマネージャーに『ボーイじゃなくて、ホストをやってみないか?』と声をかけられたりもしていたそうだ。
だが、絶対にホストなんかできないと断り続けたとのこと。
ホストなんかやりだしたら、客への営業があって好きな音楽を作れないと、そこははっきり言ったんだとか。
ホストにも色んな性格の奴がいるそうで、面倒見の良いホストは、そんなキヨを、何故かとても可愛がってくれるのだそうだ。
しかし…
キヨが言うには、キヨを可愛がってくれるホストは、みんな、ある日突然行方不明になってしまうんだとか。

『いなくなっちゃうのはさ…
店の人だけじゃなくてさ…
音楽とか他のことで仲良くなる人もさ、みんないなくなっちゃうだよね…
前にさ、ZERoくんみたいに気があって、仲良くしてたギター弾く人がいてさ、その人、すげーギター上手くて、ギター教えてもらってたんだけど、電車に轢かれて死んじゃってさ…』

『え?自殺?』

『わかんない…
遺書とかなかったから、間違えてホームから落ちた事故かも、とか聞いた…
東京来て初めてできた彼女は、急性白血病で、ほんとにあっさり死んじゃって…
ホストの店で働く前に、バイトしてたレストランの店長は、すげー良くしてくれたのに、借金があったみたいで…
突然、自殺しちゃったんだよね…
東京出てきてから、なんか…仲良くなる人、みんないなくなっちゃうんだよね…』

淡々とした口調でそう言って、キヨは、またなんとも形容しがたい、複雑な表情をした。
寂しいのか、悲しいのか、笑いたいのか、怒りたいのか…その全部の感情が入り交じってるような、とにかく変な表情だった。
俺は、なんて言ったらいいかわからなくなって、思わず、黙った。

キヨと仲良くなる人間が、みんないなくなる…と言う事は、俺も、死ぬか、行方不明かになるんだろうか?

そう思った時、無意識に俺は言ってしまった。

『俺は、生きてても仕方ない人間だから、むしろ、死にたいな…』

当時の俺は、精神的、肉体的、経済的にもかなり追い詰められてた。
キヨと同じように、俺も複雑な家庭で育っていて、自己肯定も低く、生きてる意味がわからなくなることも多々あり、衝動的に自殺したくなることしばしば。
ただ一つ、プロのミュージシャンになりたいという夢だけが、そんなアンバランスな精神を支えていた。
だからこそ、つい口にしてしまった言葉だった。
キヨは、そこで初めて俺の顔を見て、何か言いたそうな表情をしたが、何の言葉も発しなかった。

何故、キヨの仲良くなる人間が、そんなに立て続けに死んだり、行方不明になったりするのか、俺には全く検討も付かない。
しかし、偶然…と言うには、確かに数が多い気がする。
だからといって、それがキヨのせいだと言う理由にもならない。

『多分、キヨのせいじゃないよ』

俺がそう言うと、キヨは、変な表情のままちょっとだけ笑った。
なんとなく気まずい雰囲気になったので、俺は話題を変えてみた。

『今度、キヨの部屋遊び行っていい?
作業部屋見てみたい』

するとキヨは、何故かぎょっとして『ダメっ』と即答する。

『なんで?』

半笑いしながら俺がそう聞くと、キヨは、またしどろもどろな口調になって、遊びにいってはいけない理由を説明してくれた。

『なんか…僕の部屋…
なんか、やばいのがいるみたいで…
今の店で働くようになって、最初に仲良くなったホストがさ、一度遊びに来て、この部屋、やべーからすぐ引っ越せよ!とか喚いてたんだよね
その次の日に、そいつ飛んじゃって…行方不明になったんだよね』

『えぇ?!』と、俺は思わず変な声をあげてしまった。

キヨは、上京した時からその部屋に住んでいて、そこは更新料もなく家賃も破格、ただ、古いということと、住人がキヨしかいないということを除けば、風呂もトイレもついてるし、駅も近くて立地も良いそうだ。

周りが開発されていく中、時間に取り残されたみたいに古いアパート。
住人はキヨ一人。
どうやら来年、そこは取り壊されるらしい。

そんなアパートに住んでいるキヨは、最初、行方不明になったホストがいう、『やべー』という意味を、あまり理解してなかったそうだ。
しかし、よくよく考えてみると、一つだけ、思い当る節があったんだとか。
キヨは、淡々とこう言った。

『あの部屋に住み始めてからさ…
バイト、終わって部屋に帰るとさ…
昼とか夜とか関係なく、女の人が寝てるんだよね…
玄関開けたらすぐんとこに、ブラにGパンだけ履いて、うつ伏せで寝てるんだよ』

『はぁ?!何それ?!どういう状態?』

キヨの言葉に、俺は驚いて声をあげる。
キヨは、淡々と説明を続けた。

地元が平和過ぎたので、アパートの鍵をかけ忘れて仕事にいくことが、しょっちゅうだったキヨ。
ある日の夜、バイトから帰宅すると、玄関先にその女はいたそうだ。
ブラジャーにGパンだけを履いた、長い黒髪の女がうつ伏せで…とにかく、そこにいたんだそうだ。
キヨは一瞬驚いたが、鍵をかけ忘れてバイトしてたし、場所柄、酔っぱらいがたまたまキヨの部屋に迷いこんだ…と、思ったらしい。
それでキヨは、とりあえず、半裸のその女性にバスタオルをかけてやろうと、玄関脇の風呂にいき、バスタオルを取って振り返ったそうだ。
だが、女の姿は、玄関先から忽然と消えていたという。
キヨは、再び驚いたが、多分、部屋を間違えたことに気づいた酔っぱらい女性が、慌てて逃げたのだろうと解釈したそうだ。

『そんな訳あるかよ』

その話を聞いて、思わず俺はそう言った。
この話をしたら、最初に行方不明になったホストも、俺と同じ反応をしたと、キヨは苦笑していた。
それから今までずっと、1週間に1〜2回程度、鍵がかかってなくてもかかっていても、夜だろうが昼だろうが、玄関先にその女は現れるそうだ。
季節問わず、ブラジャーにGパンだけを履いたうつ伏せの姿で、いつも同じ場所にその女は現れるんだとか。
それを何故か淡々と語るキヨ。
その話を聞いていて、俺はなんだか背中に寒いものを感じた。

『それって…生きてる人間…じゃないよな?』

恐る恐る俺がそう聞くと、キヨは少し小首をかしげながら、『多分…』とだけ答えた。

『怖くないの?!』

俺がそう聞くと、キヨは、また淡々とした口調で答える。

『別に、何かされるわけじゃないし…
いつも、玄関先で寒そうな格好で寝てるだけだから…
あ…でも…
たまにだけど…
頭が動く時があって、頭が動く時って、多分、僕の方を振り返ってるんだよね…』

キヨが言うには、その女の顔は、長い髪に隠れてよく見えないんだそうだ。
一体、なんのタイミングで、その女がキヨに振り返るのかはわからないが、その女は、とにかく、そこにただ寝てるだけで、キヨに対しては何もしてこないんだとか。

ゾッとしながらその話を聞いていて、俺は、 何だか腑に落ちなかった。

その女は、本当にキヨに何もしてないんだろうか?
どうしてキヨは、怖がりもしないで、平気な顔して、淡々とこんな話をするんだろうか?

大島てるのサイトがいつからあったかは知らないが、当時、大島てるで調べることができたら、もしかすると、その謎が解けたのかもしれない。
だが、当時の俺たちには、大島てるで事故物件かどうかを調べるなんて手段はなかった。
俺は思わず、頭に過った疑問を口に出してしまった。

『もしかしてさ…
キヨの周りから人がいなくなっちゃうのって、その女のせいじゃ…?』

『………そう、なのかな?』

『いや、本当にそうかは知らないけどさ…
俺、霊感みたいなのないし…
でも、お祓いとか行ってきたら?』

俺がそう言うと、キヨは、何故かますます浮かない顔をした。
そしてぽつりとこう言った。

『いや…でも…
帰った時に誰かいるの、ちょっと嬉しいから…』

その返答に俺はぎょっとした。
もしかすると、この時点でキヨは、すでに、何かやばいモノに憑かれていたのかもしれない…

ぎょっとしている俺を横目に、キヨは相変わらず 淡々と言葉を続ける。

『実はこの間さ、店に来るお客さんに言われたんだよね…
あんた、やばい女しょってるから、お祓い行った方がいいって。
だけどさ…
なんか、いなくなっちゃうの寂しくてさ…
生きてる人間も、みんないなくなっちゃうし…
また、一緒にいてくれる存在がいなくなっちゃうかなって思うと…
なんか寂しくて…』

『………』

そんなことを言うキヨに、俺は返す言葉がなくなってしまった。

当時の俺がそうだったように、もしかすると、キヨも、この時、精神を病んでいたのかもしれない。
ワンチャン、その女の存在は、キヨの妄想だったのかもしれないし、キヨの周りから、親しい存在がいなくなってしまうのも、単純にキヨがそう思い込んでるだけだったのかもしれない。

だけど、その真相は、20年も経ってしまった今では、もう何もわからない。

そんな出来事があったけれど、俺は別にキヨと連絡を絶とうなんて思ってはいなかった。
キヨの部屋に遊びに行くことを断られてしまったので、そのうち俺の部屋に遊びに来いって、その時はそう言って別れた。

そこからの日々も、今までと大して何も変わらなかった。
バイトをして、音楽活動をして、時間がある時に電話して、先生の手伝いに行って、たまに一緒に飯食いに行ったりして。

俺には霊感なんてないから、キヨに何かが取り憑いてたとしても、そんなもの見えないし感じることもできなかった。
だから何もかも、今までと一緒だった。

そんなこんなとしてるうちに、寒い季節になって、キヨが、俺の部屋に遊びに来ることになった。

その日は、音楽の話ししたり、いろんな話をしたり、キヨの曲に歌詞をつけてみたり、コンビニでビールを買ってきて、宅配ピザを頼んで、ちょっとテンションがハイになってみたり。
なんだかすげー楽しい日だった。

そうやって、2人でごちゃごちゃやってるうちに、夜中になって、ワンルームの狭い部屋に2枚布団を敷いて、まるで修学旅行のノリで一緒に寝ることになった。
いつもは、あんまり顔に表情がないキヨ も、この日は、妙に楽しそうにしていた気がする。
部屋の電気を消して、いざ 寝ようとなった時に、急にキヨが、例のあの淡々とした口調でこう言いだした。

『ZERoくん…
昨夜さ…
玄関先で寝てたあの女さ…
動いたんだよね…
僕の方、振り返ったんだよね…』

突然、そんなこと言い出したから、俺は思わずぎょっとしてしまう。
だけど、ついノリで聞いてしまった。

『今回は、顔、見えた?』

『………見てない…多分…多分…』

今思うと、そのキヨの言葉には、なにかしらの含みがあったかもしれない。
だけど、この時の俺は、ただ『へぇ…』とだけ答えた。
そこから、何だか他愛もない話をして、気づいたら2人とも寝てしまった。

当時の俺は不眠症気味だったので、眠っていて急に目が覚めるなんて、いつものことだった。
だからキヨが遊びに来ていたこの日も、俺は突然目が覚めてしまった。
時間は多分、明け方ぐらいだっただろう。
カーテンの外はまだ暗かった。
何の気なしに、本当に何の考えもなく、俺はふと、隣に寝ているキヨの方を見た。

俺はぎょっとした。

隣で寝息を立てているだろうと思ったキヨは、なぜか両目を大きく見開いて、部屋の天井を凝視していた。
それもピクリとも動かず、瞬きもせず、だ。
ただただ、じっと部屋の天井を凝視していた。
その姿は、おおいに異様だった。
天井を凝視するキヨの目に、今、一体何が写ってるのか、俺にはわからない。
ただ、精神発作の一種に、こういう症状がある。
それを知っていた俺は、思わずキヨの肩をゆすった。
キヨのその様子が、怪奇現象だとも思ってなかった。

『キヨ!キヨ!大丈夫か?キヨ!』

俺がそう声をかけると、キヨは、目を見開いたまま、ゆっくりと俺に振り返る。
薄暗い部屋の中、何故かはっきりと、振り返ったキヨの顔が見えた。
キヨのその表情は、多分、恐怖の表情だったと思う。
俺の顔を見るなり、恐怖の表情だったキヨの顔が、今にも泣き出しそうな表情になったのを覚えてる。
キヨは、まるで女の子のようなか細い声で言った。

『ごめん…ごめん…
始発、動く時間になったら…
僕、帰るね…
本当にごめん…ごめん…』

『どうしたのキヨ?何かあったの?なんで謝るの?』

『ごめん…ごめん…』

そう俺にひたすら謝るだけ謝って、キヨは、本当に、始発の時間に帰って行った。

そんなキヨを見送り、なんだか釈然としない気持ちで二度寝をし、再び目を覚ましたのは昼過ぎだった。
妙に晴れた日、キヨは無事に家に着いたかな?なんて思いながらカーテンを開けて、何気なく、敷きっぱなしだった布団を上げる。

そして、俺は思わず『うわっ』と声をあげてしまった。

俺の部屋はフローリングで、布団を敷くのに背中が痛いからと、厚めのラグを敷き、その上に布団マットを敷いて、敷布団を敷いていた。
フローリングなのにベッドにしなかったのは、こうやって誰か友達が泊まりに来た時に、寝場所が狭くならないためだった。

その敷布団を上げ、布団マットをめくり上げると…
薄茶色のラグと布団マットの間に、何故か、長くて黒いの髪の毛が、何本も何本も落ちていたのだ。

布団を敷いた時、ラグにはこんな髪の毛、絶対に落ちていなかったはずだ。
そもそも俺の部屋には、もう半年以上女の子は出入りしてない。
しかも、キヨの髪の色は青で、今で言うショートマッシュのような髪型、俺はこの時、髪を赤く染めてショートカットにしていた。
だから、長い黒髪なんて落ちているわけがない。

キヨが話していた、キヨの部屋の玄関先で寝ている女は、長い黒髪。

まさか…!
この部屋にあの女が出た!?

そう思った俺の背筋は、氷点下まで冷えた。
俺は慌てて、キヨに電話をかけた。
だけど、何度コールしても、キヨは電話には出なかった。

それどころか何日経っても、キヨが電話に出ることはなく、先生のライブの手伝いにも来なくなってしまった。

あるLIVEの時、キヨはどうしたのか?と、先生のマネージャーに聞いたら、キヨとは一切連絡が取れなくなってしまった、という返答が来た。

その直後、プロのミュージシャンになりたいと言う夢を打ち砕かれるような出来事があり、人生に失望した俺は、実家に帰ることになり、自殺未遂をして生死の境を彷徨った。
そこから重度の双極性障害になり、しばらく仕事どころか、起き上がるのもやっとの生活が続いた。
精神疾患から立ち直った時、俺の記憶はまるで、虫食いのように飛んでしまっていた。
精神科医が言うには、重度の双極性障害を患うと、自己防衛本能が働いて、辛い記憶を消し去るために、そんなことが起こる場合があるんだそうだ。

そのせいか、キヨに関する記憶も、今の今までその大半が飛んでしまっていた。
あれから、キヨがどうなってしまったのか、今現在無事に生活しているのか、全くもって知るよしはない。

もしかするとキヨは、当時、俺と同じように、何かしら重度の精神疾患を患っていたのかもしれない。
だとすれば、キヨが言っていたことの全てが、妄想だったということで説明がつく。
だけど、たった1つだけ、まったく説明がつかないことがある。

それが、あの日、布団をめくった時に、ラグの上に何本も落ちていた、あの長い黒髪のことだ。
その説明だけは、どんなに説明しようとしても、説明することができない。

キヨ、という友人は確実に実在したはず。
あの時、俺の部屋で、キヨは一体何を見たのか。
当時、キヨが言っていた、親しい人がどんどんいなくなるという話も、キヨの部屋に出没するという女の話も、20年も経った今では、全ての真相は闇の中だ。









































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