数字はただの道具。ネットも01の世界。人だろうがぁ!?
と、思うことがあるのです。相変わらず最後だけ有料す。
過ぎ行く1月、逃げる2月、去る3月、などと言いますが、人生が暇つぶしで特に明日死ぬわけでもない人がこれを見られる環境にあるのでしょう。
僕はわりと遅刻をします。遅刻をされる事もあります。時間通りに人がいるとラッキーに感じます。人が来ないとやる事がなくてぼーっとしてるような人は怒ります。せっかく待ち合わせを本屋さんにしても喫茶店にしても。やる事がないなんてつまらなそう。
電車ではSNSを見たり横向きにしてゲームしたりしてるのに、それさえせずに怒るんだもの。いやまあ、それは僕が悪い。
けれども数字に縛られるのはどうなのかなあと。今日も平和に1日が溶けて、今日も生きて、今まで生きてきて、偉いと思うのです。
だってこの世界は残酷なんだもの。当然のように。しれっと。
友人の家に行くとアレクサがなんでもしてくれたり、Apple Watchを操作すると嫁さんに帰るよメッセージと位置情報とそれに基づく帰宅予想時間が届くし、日用品もさらっと買うし、無料のソシャゲや動画サイトの広告を見て、結局課金したり。ペイアプリの方がお得なのにもうスマホを出すのも面倒だとApple Watchで買い物をする。
それではまるで僕の友人はIoTではないですか!
いつまでもこの生活が続くとでも思っているのだろうか。
それではまるで彼がバカにするニートと同じ思考ではないですか。
ああ今何時だなとか、ああ今何日だなとか何曜だなとか、
ああ、そろそろトイレットペーパー買わなきゃなとか。
そんなもんでいいんすよ。
おもちゃにお金を使うのはいいけど、おもちゃにいつのまにかお金を使わされて…怖くならないかい?
いつまでも続く同じ生活サイクルの中で、刺激を求めるのにリスクは取らないで、その代わりに消費を取る。
僕らはいつか死ぬ。知ってた?知ってる?忘れてない?もう一度言う?
どう生きるかなんて、どう死にたいかって話さ。
他人の涙が欲しい?僕は自分の涙にまだまだ刺激的にのほほんと楽しく生きれたのに、でもたくさんたくさん楽しかったと感じたい。
どう感じたいかはいいさ。
そのかわり、
そこだけだよ。絶対に他者が救えないのは。
他人の涙ではないさ。それを見た自分さ。
本音の曝け出された自分の姿さ。
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