アート作品に作者の情報(障害者や著名人、芸人)なんて情報を付加するなんて不純不潔だ。

先日こんなツイートを見かけました。

キチンとリプライ、引用リツイートをしました。

前以て言うと、僕も手帳二級の障害者です。
そしてそのくせ、障害者アート支援団体と仕事で少しではありますが中長期的に関わりました。
ちなみに手帳を見せて、僕も混ぜてくださいよー!って言ったらダメでした笑

善意でやっている彼ら彼女らにとって、あるいは助成金が降りる降りないのところで、障害者らしい障害者であることが何故か求められてしまうのです。

それでも作品は壁にかけてしまえば、誰が書いたとか、関係ないでしょう。
自分たちで障害者アートです!
なんて言う必要がない世界なのです。

健常者、障害者のみならずいろんな人がいろんな作品を作ります。

作者の性質なぞ関係なく、同じように作品は並ぶことが出来ます。

障害者アート支援団体は無意識に、しかも善意の上で、
障害者を悪い意味で特別視して、社会から切り離してしまっているとも言えます。

そして忘れがちなのは、障害者である彼らは、社会に認知されたり展示して評価を得ることを求めているのか?
それすら確認が取れていない現場が多いように感じます。
極論言うと、1番切実で大変な思いをしている親御さんのためにあるシステムな気がしています。

僕自身も自分の作品のアウトプットに興味が持てないので、いろんな人に世に出せ世に出せと言われはしますが、
限られた体力気力はやっぱり制作に使いたい。
せっかく楽しくやっているので、楽しくないことはしたくない。

とはいえ矛盾しているようですが、僕の敬愛するアーティストや業界の重鎮のような人に作品を見せる機会には恵まれました。
国内外問わずに恵まれたと言うのは面白かったです。

業界の人はビジネスサイドで話すのは当然で、こういう風にしたらお金になるとか、有名になれるかもよ。とか言われたりしますが、

それでは僕が作る意味がないものになってしまう。

アーティストは純粋にどうか、と言うところで語ったり、互いの作品について何一つ言わないのが1番のリスペクトだったりします。
作品は本人の為のみ存在することをよしとする人が多いです。
そこの本質を崩さないように、ただ
Ok go! とだけ言う感じですね。

関係ない話で終わりましたが、
作品は作品のみで、
太宰の手紙が出てきたとか、彼の人生の足跡を追うとか、
アイドルじゃないんだから…

木梨憲武の個展とか、福山雅治の写真展とか、又吉さんの小説とか、
本気で作品を作るアーティストなら、知名度なんて利用すること自体が品性下劣だ。

という不粋なもので世の中霞みがかっているように思えます。

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