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2020年5月の記事一覧

誰かが記憶を読み直してくれる

誰かが記憶を読み直してくれる いつか、すべて忘れる、というか、消える。 柳の木の下にいた六月の明るい雨の記憶も、サイパンで食べた麦の風味が口の中をくまなく満たすバケットの記憶も、おそらく向こうも自分に好意を抱き始めているという、交際直前の幸福な記憶も、初めて自分の子供を見たときの実感のなさと笑顔を見せるようになってからのこみ上げてくる愛しさも、寝顔に癒されて子供を好きではないと思っていたことなどすっかり覆った夜の十時も、その子供についての重大な事実が判明した山梨の道ばたで

ドイツ流ハイキング

ドイツ流ハイキング リュックサックの中で食べ物が悪くなっていくのが分かった。      保冷剤が利かなくなっていた。                    おそらくみんな同様だろう。                     引率の大人は成人女性で、すでにシャツも脱ぎ払っていた。子供たちも同様に、出来る限りの薄着をして、それでも汗が止まらなかった。森が深く、山が高くなるにつれて、これほど気温が上がってくるとは思わなかった。  針葉樹の深い森に見えたのは実はジャングルで、誰から

絶えた家

絶えた家 雑木林に道とも言い難い細い筋がじぐざぐに通っている。かさかさ言う草を踏みながら分け入ると、古い、大きな瓦屋根の屋敷がある。引き戸のサッシは後から取り替えられたらしくまだ新しい。鍵を渡されて、後はご自由にといわれる。大きな家屋に不釣り合いの小さい鍵は思ったよりスムーズに回った。たたきにビニールのサンダルが一足、ハの字にぽつんと脱がれていた。この家は絶えた家だ。                        係累すべてがもうこの世にいない。おおかたの家財は整理されてい

家の風

家の風 以前は栄えていたのに寂れてしまった場所はいろいろなところにある。街道沿いの宿場町のようなところ。商店街があったと思われる旧道。木造の古い平屋に立派な瓦屋根が葺いてあり、古い店で荒物などを扱っている。新しい買い物客など見込めそうもない古い商い。引き継ぐものも絶えつつありこの代でその歴史を閉じる。あるいはもう閉じて、がらんとした店のあとに行李などが積み重ねてある。何か、歴史的な価値のある道具のようなものが残っているかと思えば、そのようなものはすべて手放して逸散している。

轡虫

轡虫 父親と反りがあわなかった。父親が惚けてから、本当に久しぶりに、ようやくちぐはぐながら会話を交わすようになった。             おそらく、父親は私に過大な期待をかけていたのだろう。何か、男の子供に対する、父親なりの、何らかの基準があって、それを私は押しつけと感じた。そして、反発した。父親の言うことにすべてノーを返した。     そんな親子関係にいた私は自分の子供にも知らないうちに、またはたまに気づきつつ、自分の父と同様の態度をとってしまう。          

ガムの壁

ガムの壁 ガムの壁を見たことがあるだろうか。クールミントだとか、あの、板ガム。 倉庫いっぱいのガムの壁。二トントラックで運ばれる。 私はある。 ガムの壁を作った。ほとんどコンテンポラリーアートだった。ロットを違えた。 ガムは匂う。ミントの、さわやかな匂いの暴力。目を狙う凶臭。 本当にこのロットでいいんですか。いいです。相手はいつもの問屋。無愛想な、事務員とおぼしき女性。顔も見たことない。 本当に来た。きっばりと言い放ったのは、いいです、と喧嘩腰に言ったのは、私。そして、発注

塔上生活

夕食を終えて家族でテレビをみていたら世界一危険なホテルと言う映像が写った。クリスタルドームというのか素通しのシェルターのようなものが高い断崖にしつらえてある。カーテンを開くと山々が見える。それを見て子供の頃よく夢想したことを思い出す。 塔状の建物というのはよく見るとたまにある。たとえば、河川にある取水塔とか水門の操作塔のようなたぐいが一番身近だった。川のそばに生まれ育ってきて、当時は河川が一番汚染されていた時代だと思うが、その汚いヘドロの川にも生き物がいた。石をどかせばカニ

十四年

十四年 十四年まえ、君はまだ私の陰嚢のなかに蔭形も存在していなかった。そしていま、君は陰嚢について学校で勉強をしている。それが試験に出て、その採点が君の将来を変えてゆく。君は勉強をする。私はそれを黙ってみている。ときおり、したり顔で口を挟むことはあるかもしれないが、君にいいかっこうをしたいだけだ。昔、学校で習ったことが実は誤りであったと判明して、それが修正されることがしばしば起こる。君と私が同じ問題で解答を違えるのはそういう理由もあるのだ。そこは分かってほしい。そして莫迦に