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誰かが記憶を読み直してくれる

誰かが記憶を読み直してくれる

いつか、すべて忘れる、というか、消える。

柳の木の下にいた六月の明るい雨の記憶も、サイパンで食べた麦の風味が口の中をくまなく満たすバケットの記憶も、おそらく向こうも自分に好意を抱き始めているという、交際直前の幸福な記憶も、初めて自分の子供を見たときの実感のなさと笑顔を見せるようになってからのこみ上げてくる愛しさも、寝顔に癒されて子供を好きではないと思っていたことなどすっかり覆った夜の十時も、その子供についての重大な事実が判明した山梨の道ばたでの車の中の電話も、いろいろなところを歩いた記憶も、父親が死んだ夜急に涙がこみ上げてよくなかった関係が急に遠ざかったように思えた記憶も、春の風の強い日、みんながそれぞれ別れていく中、それを何度も後から夢に見て胸が締め付けられた記憶も、ひとが事故に遭って重傷を負った現場に居合わせた記憶も、父親に誤って刺されて命を落としていった隣のクラスの少女の記憶も、すべての初めての記憶も、すべての別れの記憶も、すべての出会いの記憶も、すべての対立の記憶も、苦労の記憶も、成功の記憶も、生の記憶も、そのうちみんな消えてなくなる。

書いておかないと忘れる。なくなる。それでよければそれでいいけど、書いておけば残りはする。誰からも省みられなくても装置の中に残される。そして漂い続ける。

言葉が検索にかかったときに誰かが記憶を読み直してくれる。800

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