発達障害とは?
自分の人生と、関わりが深い概念の一つ 自分がしっくり言っている解釈が、信州大学の、発達障害研究の本田先生(精神科医としての実体験と、研究の両輪バランスが素晴らしい、つよつよ教授だと認識しております)の考え方で、「少数派の種族のようなもの」「一定の人にASD、ADHDなどが重複や濃度をもって存在している」という考え方。
https://h-navi.jp/column/article/35029877/2
種族の考え方については、自分的には黒色人種の人たちが、リズム感とか運動神経が優れている傾向がある、みたいなのと同じなのかなと個人的には思っている。単なる人種としての性質の違い。
自分も生きて生きた中で、この人プチ特性あるなーとか思う人が結構いる。自分もそう。紛失した大事物は数知れない。気が合うから惹かれ合って、よく周りにいる、みたいなところもある。スタンド使いと同じ
そもそも、生物的なメカニズムとして、太古から淘汰されずに今もまだいるということは社会の形成に必要なのでは?と思っている。ADHD的な、新たな概念、社会をつくる行動、推進力。ASD的な世界観構築の能力、自然に惹かれて、大きな生態系を捉えその中で生きようとする性質。でも、みんなそうだと崩壊してしまうから、少数派の種族として存在している。
日本だと、ちょっと昔にオールラウンダー、バランサーを作る教育を進めた、また会社でそうした人を求めた結果、そのままだとただの特性でしかないものが、「発達障害」となっている。発達特性をもつものは、生育環境の中で自己受容感を得れれば、特性があっても問題にはならないが、「みんなと同じ」を求める親などの影響で、愛着形成やこの世への信頼感が不安定であれば、拗らせて、愛着障害などとも絡み合い、さらに複雑化していく。
もう既出の考え方であるけれど、そう解釈している。
障害とは、その人から見た世界にある障害に他ならず、その人自体に内在するものではない。よって、環境や仕組み次第で障害は障害ではなくなる。
障害とは、生きる人一人一人が作りあげる世界の差異からなり、その差異がわかりにくいほど、大きいほど、障害となって現れる。
発達障害は見た目だとわかりにくく、ある人の感覚だと「普通」できることができない、もしくはめっちゃ頑張んないとできなかったりする。
だが、障害のあるなしに関わらず、「この人にとって」と組み合わせで考えることで、障害が、単なる苦手、得意になる。その差異は人を差別したり蔑んだり、人と違うことで落ち込んでしまったりするものから、色んな人の得意を引き出し合うものに変化する。
全てが画一的に揃うのではなく、歪なものや、きっちりとしたものもそのままに、全部全てが集まって、バランスの取れた生態系になるのではないか。
また、発達とは、「その人が、その人なりの方法とスピードで、できることを増やしていくこと」であり、比較して遅れているとか進んでいるを判断するものではない。
発達障害が問題になっている状況の背景には、その人が、その人なりの生き方をしていく道が阻まれている社会の状態がある。それは、どんな人にとってもあんま楽しくない世の中なのではないか。