理解の愛があるほうへ
すてきなイラストを提供してくださった nokka3 さん、ありがとうございます。クマが大好きなのです。
去年から、ほぼ日手帳にきままな日記というか、思いついたことの走り書きをしています。
で。去年の手帳を見返していたら、こんなことを書いていました。
「理解の愛」という言い方は、この頃に山田ズーニーさんの著書「理解という名の愛がほしい。」を読んだから、この言葉を使ったのだと思います。
この日、ある方に、ある手続きの流れの中で、自分のやりたいことを書いたドキュメントをお渡ししました。読んだその方は、画面の向こうで微笑んでくれていた。
その時のじんわりとした感動の中で、これを走り書きしたのでした。
実は、その2日前に社内で上司と衝突していた。
それまで仕事に対して必要以上に心血注いで働いたせいで、認められないと感じ、「のに」と「だって」が増えていた日々。あげくの衝突。その時の日記もありました。
その後私は会社を辞め、しばらく次の仕事は決めないまま、虚無の日々を過ごしていました。
次の仕事を決めずに退職したことについて、友人たちから「よく決意したね」という、心配も、時間ができたことへの羨ましさも、両方混じったような表情で言われたけれど、この時の私は「決意」なんてものをしていない。
ギリギリの状態で、もうここから離れるしかない、、!くらいのもんで。
そんな、なんだか極限状態に追い込まれていたというか、自分で追い込んでいた矢先の、あたたかい理解。
それだけのことで、あんなにじんわり感動できるのだね。
これは、時々思い返したいことだと、今になっても思うのです。
それからこれは、息子にも優しく問うてあげたい。
理解の愛がある方へ。
それから、温度はぬるいくらいが丁度いい。
あんなに熱量注いで仕事をしていたら、それは、周囲も自分も火傷を負う。
冷静に、でも、あたたかな温度で、取り組みたいのです。