「瞑想の実践を深めながら認知神経科学の手法を用いて、瞑想のメカニズムの検証を進める」後編 京都大学オープンイノベーション機構 特定助教 藤野正寛さん
前編より続く
●藤野さんの興味のある研究分野について
三木:今の主に興味のある研究分野ってどんなことですか?
藤野:大学に入った頃から興味は一貫してまして、「今起きていることをありのままに見守る」っていうのはどういうことなのかっていうことに興味がありますね。
宇都宮:今起きてること?
藤野:今起きてる出来事とか自分が経験していることをどれだけありのままに見ていられるか、気づいていられるかっていう。
宇都宮:ありのままに見てないっていうことなんですか?
藤野:ほとんどの場合は見れていないと思いますね。
宇都宮:そんな自覚はないけど、そういうことなんですか?
藤野:注意の観点から少し説明をすると、注意という認知機能は、他の記憶とか学習といった認知機能とかと比べて、基本的なベースとなるものだと言われているんです。なので、この注意の能力を高めることは、記憶や学習といった他の認知機能を高めることにも効果があると考えられているんです。でも、注意ってすごい日常単語になってるので、それが一体何なのかがよく分かってないことが多いんですね。注意っていうのは基本的に「意識化する」っていう機能のことなんですね。僕らにはまず五感があります。それから仏教的には、五感だけじゃなくて心の感覚器官みたいな6つ目の感覚器官もあるわけです。外部の刺激が耳に接触して音を認識するっていうように、心の感覚器官っていうのは頭の中で何かイメージしてそれを認識するみたいなものですね。そういう意味で6つの感覚器官があるって言われていて。
宇都宮:六識ですよね。
藤野:そうですね。その6つの感覚器官に常に膨大な情報が入力され続けているのですが、科学的にもざっくり言って90%以上の情報は意識に上ってきていないって考えられているんです。膨大な情報を全て意識的に処理し続けることはできないので、自分にとって重要なものだけを意識化してそれを処理することをやってるんですね。そして、そこには2種類の注意のあり方があります。1つはトップダウン的な注意です。意図的に注意を向けることでそこで起こっていることが意識化されるっていうものです。ざわざわしている町の中でも意図的に「あそこで誰が何をしゃべってるのかな」って注意を向けると、その情報が入ってきやすくなるのがトップダウン的な注意なんです。もう1つはボトムアップ的な注意です。注意を向けてなくても自分の命に関わるようなことは意識化しなさいっていう仕組みができていて…
宇都宮:危険察知とかそういうことですか?
藤野:そうですね。痛みであるとか熱さであるとか命に関わるような情報が入ってくると、注意を向けてなくてもぱっとそれが意識に上ってくるっていうものです。あと自分の価値観にとって重要な情報もぱっと意識に上ってくるんですよね。
宇都宮:何となく分かりますね。自分の好きなものは入ってきやすい。そういうことですか?
藤野:はい。心理学ではカクテルパーティ効果といったりします。パーティ会場でざわざわしている時は全く情報が耳に入ってこないけど、自分の名前が呼ばれたり、僕の場合だと「マインドフルネス」っていう言葉を誰かが発してたりすると、とたんに注意が向いて意識化されたりします。自分にとって大事な情報は、意識に上げるっていう仕組みができてるんですね。ありのままに見るっていうのは、トップダウン的に注意を向けて今ここにあるものを一側面だけじゃなくてちゃんと全体から見れてるかっていうことだと考えている人が多いんですけど、もっと大事なのはボトムップ注意のほうなんですよね。90%以上の情報は意識に上ってこないんです。自分の価値観とか過去の経験から無自覚的に選抜されたあとの情報しか上がってきてなくて、それ以外の情報は全部無意識的に処理されているんです。この上がってきてない情報は全く意味がないかっていうとそうではなくて、それは情報としては全て何らかの形で処理されているわけなんですね。何となく姿勢を変えるとかもそうです。それもこの身体の部分がちょっと疲れてきたなっていうことを感じてるけれども、意識的に処理をするほどのものじゃないから、意識は話し相手に向けておいて、無意識レベルでちょっと姿勢を変えてみるとか、寒くなったら無意識レベルで何かを羽織ったりとかしてるんですよね。あるいは特定の誰かからある特定の言葉を言われると無意識的に反応してイライラが出てきて半自動的に言葉を発してしまうとかもありますよね。そういった過程に気づかない間は、自動的にその反応パターンを繰り返してしまうことになります。そういった無自覚的な反応パターンの繰り返しを止めるには、まずは今ここで起きてることにちゃんと気づけるようになることが大切なんですね。それがありのままに見るとかありのままに気づくっていうことだったりするんですね。
宇都宮:無意識の中にあるような9割以上の情報を見れるんですか?
藤野:見るっていうより気づくっていうことに近いと思うんですね。
三木:それはトレーニングでできるようになるっていう?ヴィパッサナーは。
藤野:そうですね。アメリカで1980年代ぐらいに行われた有名な実験で、実験者が大学生に電話で「あなたの生活満足度を教えてください」っていう質問をする実験があるんですけど、晴れの日に電話を受けた学生と雨の日に電話を受けた学生では、晴れの日に電話を受けた学生のほうが生活満足度が高いっていう結果になったんです。今度は別の条件を用意して、実験者が電話をした時に「そちらの天気はどうなっていますか?」って最初に聞いて、「あ、晴れなんですね」とか「あ、雨なんですね」っていう風に彼らの取り巻かれている環境を意識化させてあげてから「生活満足度を教えてください」って聞くとどちらのグループも生活満足度が高いという結果になったんですね。これらの結果は、雨の日に、何となく身体が冷えてるなとかテンションが低いなっていう状態で生活満足度を聞かれると、天気のことを意識していない人たちはそれに引っ張られて意思決定をしてしまっていたんだろうと解釈されています。一方で、「ああ、今日は雨なんだ」って意識化した人たちは、雨のせいで自分はこういう身体の状態や心の状態になってるんだなっていうのが分かるので、でもそれは今の生活満足度とは関係がないからって、それを切り離して意思決定ができるようになったんだろうと解釈されています。そういう意味でも、自分を取り巻いている環境に気づくっていうのはすごく重要なことなんですね。さらに自分の周りの環境だけじゃなくて、自分自身の身体感覚も感情に関連しているということが、仏教的にも言われてるし、心理学的にも色々とそういう説を主張している人達がいるんです。例えば分かりやすいのだと黒板を引っ掻く音を聞くと、僕らの身体のどこかに身体感覚が生じるんです。その場所は結構人によって違っていて、僕の場合は背中に生じるんですが、腕のあたりに生じる人もいれば歯の辺りで生じる人もいるし、指先のあたりに生じる人もいるんです。人それぞれ身体感覚が生じる場所が違うんですが、だいたいどこかに生じています。でも、同じ人で見れば、毎回同じところに生じてるんですよね。
三木:僕も毎回左の肩の肩甲骨のところに痛みがあって。
藤野:さらに面白いのは黒板を引っ掻く音が耳に接触してもその感覚は出てくるし、その映像を目で見てもその感覚は出てくるし、頭の中でその音をイメージするだけでもその感覚は出てくるんですね。このように、5つの感覚器官と1つの心の感覚器官に刺激が入力されると、何らかの身体感覚が生じるようになっているんです。黒板を引っ掻く音だとかなり強い身体感覚が生じるので意識に上りやすいんですけども、それ以外の刺激でも何らかの身体感覚が生じてるわけです。今僕の声を聞いてるだけでもどこかに感覚が生じていて、その感覚に基づいて僕の声が好きか嫌いかを判断したりしてるんですね。そういう情報に気づかない間は過去の経験に基づいて自動的に反応してるんだけども、そういう情報に気づけるようになると、この場合は身体感覚に気づけるようになると、その身体感覚に振り回されずに今やるべきことができるようになってきたりする。そういう意味で色んなレイヤーで生じてることにありのままに気づいていくっていうことが、非常に重要なんだっていうのが仏教で考えられています。
宇都宮:仏教で?
藤野:仏教で考えられていて、それをベースに心理学的にもそうなのかなっていうのを検討してみたいって考えているわけです。
宇都宮:それが脳科学につながっていくものなんですか?
藤野:そうですね。それでありのままに見るっていうことにすごく興味があるんです。
三木:その状態を脳の状態として対比して見るって感じですか?
藤野:そうですね。「ありのままに見なさい」って言われても、自分でも、ありのままに見れてるのかどうかってよく分かんないわけです。ありのままに見るって何となくは分かるけど、一体それは何なんだろうっていうのを明らかにするために、ありのままに見るという瞑想をしている人達の脳の中で何が起こっているのかっていうのを調べるということを、大学に入ってから博士課程が終わるまでの間、やっていたっていう感じですね。
●瞑想はボートの漕ぎ方でしかない
宇都宮:僕達zenschoolをやっていて受講する人と対話をするんですけれど、言葉を聞くよりもボディサインを見てるんですよね。こっちは第三者でただ見てるだけですから、そういう意味では自分で自分を見るよりも、ありのままに見れてるかもしれないかなっていう。ただ当人は分からないんですよね。ボディサインが出てることも。そこが徐々に一致してきだすと、その人の心の中で何かが湧き起こるみたいなことは体感的にzenschoolで体験してますね。
藤野:横でありのままに見守ってくれてる人がいるっていうのはめちゃめちゃ重要なことですね。
三木:そうなんだ。それは心理的な安全性っていうことですか?
藤野:そうですね。大学で臨床心理学の先生と話している時に、「瞑想っていうのはカウンセリングでやってることを、1人でやってるという感じなのかもしれないね」って言われたことがありました。僕達瞑想者は、注意力を高めて自分の身体で起きていることに注意を向けて、「あ、こんなことが起きてる」って気づいていって、その上で、そこに意図的に働きかけるんじゃなくて、それをただ見守ってあげているとその緊張がほぐれていくっていうことを1人でやってるんですね。カウンセリングの場合は、クライアントだけでなくセラピストもいて、セラピストが横にいて傾聴していると、徐々にクライアントの抱えている問題が焦点化されて浮き彫りになっていく。
三木:浮き上がってくる。
藤野:そして、その問題に関わる感覚や感情が出てきた時に、瞑想者の場合はありのままに見守るっていうトレーニングをしているので、それらに反応せずに、ありのままに見ることで、問題に関わる緊張が緩んでいくっていうことが起こるんですね。でも、そういったトレーニングをしていないクライアントの場合はなかなかそれを1人ではできないんですね。ところが、セラピストが横にいて穏やかに傾聴していることで、守られた安全な環境の中でそういった問題と向き合うことができるようになって、それを何らかの形で解消していくっていうことが起きてるのかもしれないねっていう話になったんです。
三木:それに近い体験をよくしてますけど、僕は経営者でもあるので色々お金のこととか大変なこともいっぱいあるんですね。基本的にそういう時は瞑想時間を長くするんですよ。そうすると段々と課題点が浮いてきて、勝手に解決策が出てくる状態になって。だからすごい体験してます。1人カウンセリング、自分に対して自分でカウンセリングするっていう。
藤野:そういう意味では、瞑想は横で聞いてあげるっていう時にもすごく有効なツールになるんです。自分でトレーニングをすることで人と話す時にも、どういう注意のあり方で接するべきかっていうのが分かってくるので、介入するでもなく、余計な手出しをするでもなく、距離を置いて無視したりするわけでもなく、温かくただ見守ってるっていう。フロイトが、カウンセラーの身につけるべき大切な態度として「平等に漂う注意」というのを紹介しているのですが、そういう態度も瞑想することで身につけやすくなるんだと思います。
三木:小木戸さんのシアターワークもそれに近い効果がある気がします。その場を作ってあげて表現を参加者がすることで自分で緊張を解いていくっていうか…
藤野:僕は、色んな心のケアに関わる技っていうのは、意識化することとそれを取り除くことの2つが何らかの形で技になっているのではないかと思っています。集中瞑想をして意識化して洞察瞑想をしてありのままに受け入れるであったりとか、カウンセリングで傾聴して問題が焦点化していって、それを守られた環境で安心感と共にそれと向き合うことでそれが解消されるとか、シアターワークでみんなで動きを作ったり、守られた環境でコミュニケーションを取ることで、そこから問題が出てきてそれを自分で消化していくとかです。祭りとかもそうだと思うんですね。どれが正しいっていうよりかは、どれが自分に一番向いてるかだと思うんですよね。1人でやるのが好きな人もいれば、みんなでやるのが好きな人もいるので、みんながみんな瞑想をやる必要はないと思っていて、でも心の中に抱えているもやもやしたものを適切なタイミングで消化していくっていうのはとても大切なことだと思うので、自分に合った何かをひとりひとりが見つけていけたらいいなと思っていますね。
三木:僕は圧倒的に瞑想派ですね。お手軽だし。
藤野:お金がかからないし。
三木:お金がかからないしね。自分だけで座れば。だから最初僕がリストラされて鬱になった時も、ここでずっとYouTubeを見ながら座禅を開始して、自分で自分をセルフヒーリングすることを学んで、そういうのを他の人に提供したいなって今zenschoolをやってるんですけど、zenschool自体はそんなに長く瞑想をしないので。
宇都宮:対話が多いですね。
三木:対話が圧倒的に多いので。
宇都宮:僕は製造業にいたので、トヨタ生産方式って表出化、見える化ですよね。気づかないことに気づくと改善をするっていう、プロセスはたぶん近い気がする。無意識でやってることに気づかせるっていう。
三木:そういう意味だと野中郁次郎先生ってご存知ですか?イノベーション研究で80年代から有名なんですけど、そのプロセスの中に表出化っていうプロセスがあって、気づくことでそれに対しての次のアプローチをどうするかっていって、グルグル回していくとイノベーションが起きますよっていう。
藤野:一照さんが「瞑想っていうのはボートの漕ぎ方でしかなくて、どこに向かっていくかは別の話だよ」っていうことを言われてるんですけど、気づいたりありのままに受け入れるっていうのはある意味でボートの漕ぎ方で、どこに向かっていくかはその人の住んでる価値観の中で決めていったらいいと思うんですね。僕の場合は条件づけを取り除きたいっていう方向に漕ぎ出した感じなんですけど、もちろんビジネスの世界で使うっていうことも1つだと思うんですね。それは別に良い悪いじゃなくてその人の世界なので、どれをやったらいいかは自分で決めたらいいかなって思うんです。気をつけないといけないのは、条件づけを取り除きたいと思ってるのに全然違う方向に向かっていってる人がいたりとか、逆もいると思うんです。
三木:例えばどんな感じですか?リラックスしたいのにガシガシ仕事をするイノベーションとかに行っちゃってる感じ?
藤野:今ビジネスの世界で流行っているマインドフルネスというのは、それが悪いというわけではないのですが、一部ではOSのクリーンアップに近いことがやられてる気がするんですね。僕たちは、何か資本主義的なOSを持っていて、その容量がどんどんいっぱいになるので、瞑想によってクリーンアップをして、少し容量を空けることができるというイメージです。でも少し容量が空いて、そこに何を入れるかっていうと、価値観が変わらない間は、また仕事やタスクを入れてしまうんですね。そうすると、ある程度は前よりもできるようになるんですけど、またすぐにいっぱいになるから瞑想してリラックスしてっていう。これって最終的にはOSがパンクしてしまう方向に向かっていくと思うんです。そうじゃなくて、僕らは、OS自体のバージョンアップをしていくことをやっているんだと、あるいはちょっとずつ価値観を変えていくことをやっているんだと思っています。そして、最終的なところまで行く人っていうのは、「そんなOS自体がなかったんだ!」みたいなことになるんだと思うんです。そこまで目指すかどうかは別として、価値観を変えることで働き方が変わったりとか、そこに対する依存度合いが変わったりっていうことが起こってくる気がするんです。そうじゃないと結局楽になりたい、ストレスを下げたいと思ってマインドフルネスをやってるつもりが、逆によりしんどくなっていくっていうことが起きたりするんじゃないのかなと思っていて。
宇都宮:方法論が違うっていうことなんですか?バージョンアップとクリーンアップで。
藤野:方法は一緒なんだけどベクトルが違うんだと思います。
三木:延長線上かちょっと一段上がったところなのかっていう。
藤野:有名な神経可塑性の実験で、2つのグループのサルを用意して、耳に全く同じトーンの音刺激を呈示して、手に全く同じ触覚刺激を呈示するんです。その音のトーンがたまに変化するんです。触覚刺激もたまにパターンが変化するんですね。一方のサルには音の変化に気づいてボタンを押したらジュースをあげるって仕込んで、もう一方のサルは触覚刺激の変化に気づいてボタンを押したらジュースをあげるって仕込むんです。そうすると数ヵ月後には、音の変化に注意を向けていたサルだけが聴覚野が変化してくるんですね。
三木:聴覚野がどんな?鋭敏になるんですか?
藤野:大きくなるんです。
三木:そこの部分の脳細胞が増えるっていうこと?
藤野:はい。つまり全く同じ音と同じ触覚刺激を受けていても、注意を向ける場所が違うと脳の変化の仕方が違ってくるんですね。それと同じで、集中力を高めて色んなものに気づけるようになっても、注意を向けてる場所が違うと成長の方向も変わってくるんだと思うんですね。なので注意っていうのはめちゃめちゃ重要で、ちゃんと気づいて注意を向けることが自分の成長にもつながっていくんですね。その注意が何によって影響を受けてるかっていうと、意図とかの影響を受けていると考えられているんです。分かりやすいのだと、中国語を勉強しようという意図を持つと、町を歩いていると自然と中国語が耳に入ってくるようになったりしませんか。そのように、どんな意図を持っているかで注意の向く場所が自然に変わってくるんです。さらに、その意図の背後には価値観があるんですね。自分は資本主義の社会で優秀なビジネスマンになりたいという価値の世界に生きていて、そのためには中国語を勉強したほうがいいという意図が出てきて、そうすると自然にボトムアップ的な注意が中国語に向くようになったりとか。あるいは仏教的な世界で生きたいという価値観を持っていて、そこから全ては無常で無我で苦なんだっていうことを学びたいっていう意図が出てきて、それで注意が自分の身体の感覚とか感情に向くと「ああ、これも無常なんだ、無我なんだ、苦なんだ」っていうことが学べるようになってくる。そういう意味では資本主義の世界で生きていてお金をちゃんと稼いでいきたいんだっていう意図で、注意力を高めたり全てを平等にありのままに見れるっていうことをやっていっても、OS自体は変わらないわけですね。OSはどんどん強化されていって、瞑想をやってストレスが下がっても、やることは今までと同じになってるわけです。そうじゃなくて仏教的な価値観で生きていきたいなって、その時に無常で無我で苦なんだっていうことを体験的に学ぶっていうことを目的にした場合に、例えば自分の感覚が生じてきた時に、しばらくそれを観察してると「ああ、これは変化していった。ああ、無常なんだな」ってことがわかってくるんですね。あるいは、痒みが出てきた時に、「何で瞑想中に痒みが出てくるんだ」と思って何とかコントロールしようとするんですけど、実は全く自分で思い通りにならないんだっていうことが分かってくるんですね。思い通りにならないものが自分じゃないんだって考えると、実は自分の中に生じてる感覚とか感情っていうのも全然思い通りにならなくて、「あ、これは自分じゃない」っていうことがちょっとずつ分かってくるわけです。そうすると次に似たような感覚が出てきても、「これがいずれなくなるのはもう分かってるし、今何とかしようとしてもなくなってくれないし、放っておいてもなくなるんだったらそっと見守ってるのがいいよね」って距離を置けるようになって、そのいずれなくなる思い通りにならないものにリソースを割くんじゃなくて、今やるべきことにリソースが割けるようになってくる。そういう風に無常、無我、苦を体験的に学んでいくことで、「自分は変化しない存在で、自分のことは自分で思い通りになるんだ」っていうOSがちょっとずつ変わってきて、そこにかかずらわる必要はないんだなっていう領域が増えてくるわけです。結果的にはそれによってビジネスに対してより高いパフォーマンスを出したりはできると思うんですけれども、そのパフォーマンスを出すために瞑想をやってるっていうよりかは、無常で無我なんだなっていうことを体験的に学ぶために瞑想をやってる形になっています。
三木:ガチガチにパフォーマンスを求めてマインドフルネスを始めた人が、無常、無我に目覚めることも結構多いような気がするんです。元々楽天の事業部長をやってた方に2年前にWisdomでお会いして、今CIIS(カリフォルニア・インテグラル研究所)に行っててすごい変わってて「あれ?」みたいな、あの怖い楽天の事業部長はどこにいっちゃったんだろうみたいな感じ。
藤野:そこは結構個人差があるんじゃないのかなと思っています。一定数はそういう人もいるんじゃないのかなと思っているのですが、どんな人でもビジネス的なマインドフルネスをやって無常、無我、苦のほうに流れていくかっていうと決してそうではない気もします。それは、文化的な背景とか家庭的な背景とか個人的な好みとかもあると思うんです。さっきボートの漕ぎ方とどこに向かっていくかの話をしましたけど、そこにさらに文化とか宗教といった川の流れみたいなのもあると思うんですね。例えばタイとかで伝統的に輪廻とかを前提にしている社会で、それが良いか悪いかとか科学的に正しいかどうかは別として、そういう世界観で生きている人達がボートの漕ぎ方を覚えると仏教という宗教や文化の川の流れがあるので、自然にある一定の方向に向かっていくんだと思うんですね。また日本では、科学とか資本主義的な川の流れがあって、でもその下には別のもうちょっと禅的とか神道的な川の流れとかもあって、ボートの漕ぎ方を覚えると、今の現代社会の流れに乗っていく人達もいると思うし、禅とか神道とかの川の流れにのっていく人達もいると思うし、一概にみんながどっちに行くかとは言えないのではないかと思っています。
宇都宮:どういう情報が入る環境にいたかでたぶん違ってくるかもしれないですね。無意識に入っちゃってるっていうことですもんね。
藤野:情報としてはローデータとしては100%が入ってくるけれども、そのうちのどのレイヤーまでの情報が意識に上ってくるかが違うんじゃないのかなって思いますね。
宇都宮:良い言葉を常に言うとか、良い空気を吸うとか良い景色や場所にいるとかって何か違う気がするんです。勝手なイメージなんですけど。
藤野:それはすごいあると思いますね。それはプライミングの話とかが関係してるんだと思うんですね。良い環境にいることが僕らの行動パターンとか意思決定に影響を与えるんじゃないかっていうことですか?
宇都宮:そんな気が勝手にしてるんですね。
藤野:心理学の世界にプライミングっていう概念がありまして、環境とか先行刺激に応じて後の意思決定とか行動が変わるっていうものです。僕らは色んなモードを持っていて、その時々でモードを切り替えて生きていると考えられているんですね。例えば、「『毎年100万人が訪れる美術館』っていうキャッチコピーと『孤高の美術館』っていうキャッチコピーがあって、あなたはどっちの美術館に行きたいですか?」っていうのを質問する実験があるんですけど、その前に5分間『シャイニング』というホラー映画を見てもらうグループと『恋人までのディスタンス』という恋愛映画を見てもらうグループに分けるんですね。そうするとホラー映画を見た後の人達では、『100万人が訪れる美術館』を選ぶ人が相対的に多くなるんです。一方で恋愛映画を見た後の人達では、『孤高の美術館』を選ぶ人が相対的に多くなるんですね。それはホラーモード、恐怖モードみたいなものをプライムされてその状態で意思決定を迫られると、人がいる美術館のほうが安心感があるのでそっちに行きたいと感じたり、恋愛モードにプライムされた後にどっちに行きたいって迫られると、2人の世界に入りたいっていうことを感じて孤高の美術館のほうがいいだろうってなったりするんだろうって言われてるんですね。
宇都宮:プライムってどういう意味?
藤野:プライミングですね。先行刺激によって後の意思決定を変えるっていう、方向づけるっていうことですね。
三木:場所とか環境がすごい重要だっていうことですね。ワークショップの時も。
藤野:そうですね。僕らは色んなモードを持っていて、常に意識的にものごとを処理してるんじゃなくて、モードをうまく切り替えながらそのモードで自動的・効率的にものごとを処理してるんですね。そのモードはたった3つの言葉を覚えてもらうだけでも方向づけができたり、5分間の映像を見てもらうだけでも方向を変えたりっていうことができるようになってるんですね。そういう意味では環境っていうのは僕らの意思決定とか行動にめちゃめちゃ影響を与えるものになっていますね。
宇都宮:それはあるがままに見てるとまた違う状態にあるっていうことですもんね?
藤野:違いますね。これはどっちかって言うと、方向を作っていくという話、瞑想でいうとコンパッションの話ですね。これについてもまたいつかお話したいですね。
●藤野さんの考える「○○の未来」に対する想いについて
三木:最後に皆さんにしている質問があって、「○○の未来」に対して何か想いがあれば。○○は自分で入れていただくんですけど、藤野さんにとっての○○とは何か?
藤野:「○○の未来」ってどういうことですか?
三木:例えば瞑想の未来とか瞑想研究の未来とか。
藤野:何でしょうね。「ありのままに見ることの未来」ですかね。
三木:それはどうなっていったらいいと思いますか?
藤野:今までは、僕らは何でもコントロールできる前提で活動してきてると思うんですね。それは科学的な世界観では正しいと思うんですけれども、どうしてもコントロールできない部分はあると思うんです。コントロールできると思ってる時にコントロールできないものが目の前に突き付けられると、そこに不安とか不満足が出てきたりすると思うんですね。でも実は僕らにはコントロールできないものもいっぱいあって、そういう認識で生きていくこともとても大切だと思うんです。完全にされるがままになるべきだっていう意味ではないんです。世の中には、コントロールできるものとできないものがあって、コントロールできないものまでできるつもりになって向き合っていくと、過剰な不安とか不満につながっていくので、コントロールできないものもあるんだって理解しながら、それをありのままに見るっていう新しい価値観あるいは感情のマネジメント方法みたいなものが今の時代に必要なんだと思っているんです。そういった価値観が、仏教ではずっと語られていたけども、今は心理学の観点からもそれを検証できる時代になってきているのですが、まだまだ検証は進んでいないので、この分野はこれからだろうなって思っています。そういう意味でありのままに見ることの未来みたいなものが、これから広がっていくんじゃないのかなって。
三木:いいですね。マネジメントもたぶんそうなっていくと思います。非常に興味深い話をありがとうございました。
藤野:脳科学の話、自分の研究の話はほとんど何もできなかった(笑)。
三木:それは次回に。本日は京都大学の藤野さんのほうに来ていただきました。どうもありがとうございました。
藤野:ありがとうございました。
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