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『鬼滅の刃』不理解のリズム。繰り返される自己否定。それでも前を向く。

今週、漫画『鬼滅の刃』の連載が最終回を迎えました。

鬼に家族を殺された主人公竈門炭治郎が、鬼にされた妹禰豆子を元に戻すため、鬼狩りとなって人喰い鬼と戦う物語を描いた本作。
近年でも稀にみる大ヒット漫画となり、直前までもしや二部に続くのでは?現代編突入か?などと思われつつも、すんなりとその幕を閉じました。

というわけで、改めて鬼滅の刃を第一巻から読み返しつつ。
この作品の何処が魅力的なのかを、改めて考え直してみました。

先に明言しておきますと、この記事で最終的に言いたい事は「『肋骨さん』読もうね」です。『吾峠呼世晴短編集』を買って、『肋骨さん』含む鬼滅連載前の短編を読むのです。源流なので。源泉掛け流しなので。読んでね。
また、当然この記事には『吾峠呼世晴短編集』とジャンプ最新号分までの『鬼滅の刃』のネタバレが含まれているので、まだ読んでない・単行本を待っている方はご注意ください。

『鬼滅の刃』の魅力は何処にあるのか。
やっぱりそれは……世界観の根底の暗さにあるのだな、と私は思うのです。

理解し合えない、を描く

『鬼滅の刃』では、キャラクター同士のコミュニケーションが成立していないシーンが多く描かれています。

「すみませんが あそこの籠と藁 竹を少々 いただけますか?」「そりゃ構わねぇけど… 籠は穴が空いてるぞ」「はい お金を払います」「いやいらんよ 穴の空いた籠だぞ」「いえ払います」「いやいらん 竹も藁もやるよ」「でも払います」「いやいらんて!!頭の硬い子供だな」「納めてください小銭ですが ありがとうございました!!」
―第1巻第2話
「これが日輪刀だ」「あの…どうぞ中へ」「俺が打った刀だ」「お茶をいれますよ」「日輪刀の原料である鉱石は(中略)陽の光を吸収する鉄だ」「ふろしきが土で汚れると思うんですよ」
―第2巻9話

上記のシーン以外にも、相手の話を一切聞かずにガンガン自分の話を進めたり、説明なしで自分なりにした行動が相手に理解されず困惑されたり、怒られたり……コミュニケーションが上手く成り立っていない状況を、ギャグ的に描写するシーンは、この作品では頻繁にみられます。
こういった噛み合わない会話のリズムが生む笑いは、この作品の特徴の一つと言えるのではないかなと思います。

作者である吾峠呼世晴先生が鬼滅以前に書いた短編『肋骨さん』では、以下のようなシーンがありました。

「ひとりで何話してんの?」
「河童がいるよ」「そうじゃ」
「えっいないよ 大丈夫?」
「大丈夫!朝ご飯ちゃんと食べてるから」
「朝ご飯を食べていてそんなふう? 大丈夫ならいいけど…」
―『吾峠呼世晴短編集』「肋骨さん」

守護霊の河童と会話をする主人公、アバラ。
通りがかりの少年は、彼が独り言を呟いていると思って声を掛ける。
河童がいる、と言われても、少年には河童が見えていないため、アバラが世迷言を言っているようにしか感じられない。当然その正気を疑うが、アバラは朝ご飯という健康面の答えを返す。
会話が出来ているようでいて、その意図には大きなズレが生まれてしまっています。

こうしたズレが起きる理由は、キャラクター毎に見えているもの・考え方が違うから。アバラには河童が見えていて、少年には見えていない。農家の男は穴の空いた道具なんて無価値だと思っているが、炭治郎は人から物をいただくなら返礼は必要と思っている。鋼鐵塚にとって最も大切なのは刀の事で、それ以外の事は二の次である。

ズレは、そのキャラの立場や思考を明確にしてくれます。
『鬼滅の刃』に登場するキャラクターたちが魅力的に映るのも、こうしたズレのリズムの中でキャラクターの思考を描写しているから、かもしれませんね。

ただ、こうしたズレの描写は、何も漫才的な楽しい描写だけには留まりません。各々が自分の視野・理屈で行動するという事は、見えているものや考え方が違えば理解し合えない、という事実も明確にしてしまっているから。

分かりやすい例が、柱合裁判のシーンでしょうか。

鬼を連れた隊員である炭治郎は、鬼殺隊のトップであるの集まる会議に呼び出される。その場に集った柱たちは、その全てが鬼を庇う炭治郎の態度を認めない。

それもその筈で、鬼となった人間が人を喰わずにいられた例など、これまで一度たりとも存在していなかったのですから。炭治郎や読者は鬼化した禰豆子が人を喰わないことを知っているが、柱たちはそうではない。身内だからと危険な鬼を庇い、人を死なせてしまうかもしれない隊員。鬼に人生を狂わされた者が大半の鬼殺隊で、その態度が容認出来ないのは当然でしょう。

けれど、事実を知る炭治郎や読者の視点からは、この柱たちの方こそ頭の硬い、融通の効かない存在に見えてしまう。いくら鬼が危険な存在だとはいえ、この時点で柱たちに良い印象を持った読者はそう多くないのではないでしょうか。案の定、禰豆子を傷つけ人喰い衝動を試した風柱・不死川実弥に対して炭治郎は怒りを爆発させるし、読者としてもそんな炭治郎を「いいぞ!」と応援したくなったのではないか、と思います。

もちろん、この時の柱に対する悪印象は後に払拭されます。
彼らの精神性や背景を知るにつれ、炭治郎たちと共に読者も彼らが尊敬に値する者たちであることを理解する。柱たちも、命がけで戦う炭治郎や禰豆子を見て、その考えを改めていく。互いを知らないことが悪印象の原因なら、知ることでそれは解決していく。

けれど、そういう例ばかりではない。
互いの考えを知らないままであれば。或いは知ったとして、到底歩み寄れないものだと感じてしまったのなら。お互いに理解し合う事は出来ない。

鬼は、その歩み寄れない者の最たる例です。
大前提として、人を喰わなければ生きていく事が出来ない鬼は、その存在自体が既に人間にとって看過できない害悪である。その上、鬼となった人間は己の欲望を肥大化させ、手前勝手な理屈で人を殺す。彼らの大半は、頸を斬られて死ぬまでその考えを改める事が無い。人と理解し合う事が出来ない。

「女共はな!!あれ以上生きてると醜く不味くなるんだよ だから喰ってやったんだ!!俺たちに感謝しろ ―ギャッ」
「もういい」
―第二巻十三話

……炭治郎に救われた鬼もいる。
最初の強敵である手鬼は、死の間際に炭治郎が手を握ってくれた事で、兄との思い出の中で消えた。鼓の鬼は否定され続けた生の最期に、少しでも価値を見出してくれる人と出会えた。累は炭治郎と禰豆子の絆に求めていた家族の温もりを思い出し、妓夫太郎と堕姫は兄弟の絆を失わずに済んだ。猗窩座は炭治郎の真っ直ぐな態度がキッカケとなり、最期には修羅の道から抜ける事が出来た。

けれどそれは、炭治郎の誠実さが彼らの記憶に響いたというだけで、理解し合えたわけではない。炭治郎は彼らが最期に何を思ったのか分からないし、鬼であった彼らが炭治郎と和解したわけでもない。死に際の救いは彼らだけのもので、作中では彼ら自身以外、その心の内を知るものはいない。

上記で例に挙げた鼓鬼などは、分かりやすい例でしょうか。
自作の小説を塵と足蹴にされ、鼓の腕も「人に教えられるほどじゃない」とバカにされていた鼓鬼は、戦闘中にも関わらず原稿を踏まなかった炭治郎に心を動かし、「君の血鬼術は凄かった!」という言葉に救われる。
けれど炭治郎は、鼓鬼の小説を評価したわけではない誰かが手書きで文字を書いた紙は踏むべきでない、と思っただけ。術の強さは鼓鬼自身誇るものではあったけど、それは鼓の演奏能力とは別のものでしょう。
実際のところ、血鬼術を褒めた以外、鼓鬼が本当に欲しかった評価が炭治郎から得られているとは言い難いし、炭治郎も彼が評価を求めていたとは知らない。お互いの本心は分からないまま

それでも、炭治郎の誠実さは鼓鬼に響いた。

「小生の…… 血鬼術は………… 凄いか…………」
「凄かった でも」「人を殺したことは 許さない」
―第三巻二十五話

人と人(この場合は鬼だけど)は簡単には理解し合えない。
すぐにお互い誤解して、本心は分からない。分かっても譲れない一線がある。炭治郎の優しさが、それでも最期の最期に鬼を癒す事はあるけれど、大抵はそうはならない。善逸の兄弟子獪岳継国巌勝のように、最期まで求めるものに手を伸ばせずに終わってしまう鬼も多い。

このキャラクター同士の心の遠さが、残酷さが、『鬼滅の刃』という作品の魅力の一つで。そんな世界でも、誤解を解き心を通じ合わせられることがあるという小さな救い温かみもまた、この作品の大きな魅力なのだと感じます。

自己否定

『鬼滅の刃』に漂う薄暗さの理由は、キャラ同士の不理解だけではありません。作中で何度も繰り返される自己否定もまた、この作品の暗さと湿度を描写するものと言えるでしょう。

『鬼滅の刃』の登場人物は、その多くが低い自己評価を抱え持ち、己の弱さに苦しんでいます。

「俺はもうすぐ死ぬ!!次の仕事でだ!!
 俺はなもの凄く弱いんだぜ舐めるなよ」
―第三巻二十話
「俺に才能なんてもんがあるように見えるか?
 俺程度でそう見えるならテメェの人生幸せだな」
―第十巻八十七話
「俺は水柱になっていい人間じゃない
 そもそも柱たちと対等に肩を並べていい人間ですらない 俺は彼らとは違う 本来なら鬼殺隊に俺の居場所はない」
―第十五巻百三十話
「何故私は何も残せない
 何故私は何者にもなれない
 何故私とお前はこれ程違う」
「私は一体何の為に生まれて来たのだ 教えてくれ 縁壱」
―第二十巻百七十八話

自身の弱さや、在り方。大切な者を守れなかった過去。求めていた場所に手が届かない苦痛。多くの登場人物が自身の在り方に満足できず、苦しみ、時として自己否定を繰り返す。

こうした自己否定の描写は、短編『肋骨さん』でも強く描かれていました。

「一人でも多く倒して 一人でも多く助ける そうやって死ぬ そうでなければ僕などが」
『善而を差し置いて 存在していいはずがない』
―『吾峠呼世晴短編集』「肋骨さん」

善良で強く、家族もいた男が、天涯孤独の自分のために死んでしまった。
だったら自分の命を擲って誰かを助け続けなければ、その死の意味はどうなるのだろう。そんな考え方から、己の命を粗末にしてしまう主人公アバラ。

『鬼滅の刃』では、水柱・冨岡義勇が彼と最も近い立場にいるでしょうか。
姉を守る事が出来ず、選別で鬼を狩る事も出来ず。強く頼もしかった同門の友人だけが、全ての鬼を狩り死んでしまった。そんな過去から、義勇は自身を水柱と認められず、周囲と距離を置いている。

自身の存在自体が、どこか間違ってしまっている。
自身よりももっと大切で、生き残るべき人間がいるはずだったのに。
そんな風に考えながら命がけの戦いをする義勇は、第一話で炭治郎にこう叫びます。

「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」
「惨めったらしくうずくまるのはやめろ!!そんなことが通用するならお前の家族は殺されていない」
「奪うか奪われるかの時に主導権を握れない弱者が 妹を治す? 仇を見つける?」
「笑止 千万!!」
―第一巻第一話

冨岡義勇のセリフの中で最も長く語られた言葉は、炭治郎を想っての言葉であると同時に、かつての自分に向けられた言葉でもあるのでしょう。奪うか奪われるかの時に主導権を握れない弱者とは、紛れもなく自分自身のことだったのですから。

他のキャラクターたちにも、自己否定の感情は散見されます。
自身の血筋が長く受け継いできた呼吸法が、はじまりの呼吸の劣化に過ぎなかったのだと思い情熱を失う煉獄家の父。自身の体躯では鬼を斬れないと知りながら、それを押し殺して戦い続けた胡蝶しのぶ。生贄として生まれ、喰われない為に逃げたが故に身内に罵倒された伊黒小芭内。自身の力の強さを、一時は隠して生きようとした甘露寺蜜璃などなど……

人間離れした圧倒的強さを誇るはじまりの剣士・継国縁壱ですら、無惨を倒せず、尊敬する兄が鬼となってしまった事で、自身を「人生で為すべきことを何も為せなかった男」と評してしまう。

他者から見た自分の姿がどうであれ、自身がそれに納得していなければ、到底認める事は出来ない。自分はダメで、生きている価値がない。そう感じてしまう事があるのは、作中の登場人物だけでなく、読者である我々も同じでしょう。彼らのような壮絶な過去を持ってはいなくとも、自分の無価値さに辛く苦しい思いをしたことのある人間は、そう少なくはないと思います。

作中で何度も、何度も繰り返される自己否定は、そうした読者の感情を刺激します。どんなに前向きな明るい感情よりも、仄暗い後ろめたさの方が共感を呼ぶことがある。勝手に共感して、感情移入して、そのキャラクターに入り込んでしまう。それはある種、心地の良い体験です。

現実は苦しく、残酷で、自分に価値はなく、どうしようもなく弱い。

薄暗い共感に浸った読者は、けれどその先に、それでも立ち上がるキャラクターたちの姿を見ます。

「頑張れ炭治郎頑張れ!! 俺は今までよくやってきた!! 俺はできる奴だ!! そして今日も!! これからも!! 折れていても!! 俺が挫けることは絶対に無い!!」
―第三巻二十四話
「なれるかなれないかなんてくだらねぇこと言うんじゃねぇ!!」
「信じると言われたなら それに応えること以外考えるんじゃねぇ!!」
―第八巻六十六話
『炭治郎 炭治郎 本当か? 本当にそうか? 俺に出来ると思うか?』
『やる やる やるしかねぇ 勝つことだけ考えろ 俺は兄貴を 師匠を 仲間を絶対死なせねぇ』
―第二十巻第百七十二話

自身の無さに心が負けそうになったり、時として負けて鬼となった者たちの姿を見てしょうがないよなと思ったり。自己否定に共感した読者は、っていうか私は、それでも、無理にでも心を奮い立たせて立ち上がり戦う彼らの姿に、気持ちを持っていかれる。彼らも辛くて苦しくて、自分と同じ人間で、けれど負けない。自身を鼓舞して為すべきことに向き合う。

心の通じ合わなさと同じで、こうした自己否定の描写もまた、世界の暗さを思い知らせ、小さな光をより輝かせて見せる。

この感情の揺れ動きが。
明るく楽しいだけではいられない心の在り方が。
薄暗さが。読者の気持ちを引き寄せ、魅了し、背中を押してくれる……のかもしれません。

前を向く

何度も繰り返される不理解と、自己否定。
この世は残酷で、相手が自分の考えを尊重してくれるとは限らない。
人一人の力はどうしたって限界があって、求めるものは手に入らないのかもしれない。

『鬼滅の刃』作中には、多くのきょうだいが登場する。
兄を食い殺してしまった手鬼。妓夫太郎と堕姫。継国兄弟。時透兄弟。不死川兄弟。煉獄兄弟。蝶屋敷の姉妹たち。善逸と兄弟子の獪岳。その多くは死に別れ、炭治郎と禰豆子もまた、彼らのみを残して家族を失っている。

その果てに、元凶である鬼舞辻無惨を討ち果たした炭治郎は、けれど無惨によって鬼に変貌させられてしまった。いつか炭治郎は自分が鬼になれば、誰かが自分の頸を斬ってくれると言っていたけれど、実際は誰も炭治郎を斬れず、救おうとして傷付いて。

そんな炭治郎に、無惨の細胞は様々な言葉を投げつける。

「前を向くな 人を信じるな 希望を見出すな」

「お前だけ生き残るのか? 大勢の者が死んだというのに」
「お前だけが何も失わずのうのうと生き残るのか?」

「死んだ者たちの憎しみの声が聞こえないのか!! 何故お前だけが生きるんだと叫んでいるぞ」「何故自分たちは失ったのにお前だけが……」
―週刊少年ジャンプ2020年21・22号

それは、多くの登場人物が自分に投げかけてきた自己否定でもある。
辛く苦しく、心は今にも折れそうで。他者とは心が通じ合わず、人の力は鬼と比べれば無力で。

鬼舞辻無惨は、病弱だった自分を否定した。完璧な存在になろうとした。けれど日の光を克服できず、顔の青白さを指摘された時は癇癪を起こしていた。変化は劣化と断じて変わろうとせず、強い力に驕りながらも臆病に身を潜め、鬼が群れるのを禁じ、呪いをかけた。自分なら出来て当然の事も出来ない十二鬼月を見下し、甘言で利用するだけで誰とも心を通わせようとしなかった。鬼の心の声を聴く力を持っていたのに、彼らの言葉をまともに聞いた描写がどれだけあっただろう。

否定し、閉じこもり、変化を恐れた鬼舞辻は、受け継ぎ成長していく鬼殺隊に追い詰められ、赤子の姿となって醜く抵抗した。
永遠を望む彼の生存欲求は、けれど苦しくとも前に進む人生のそれとは毛色が違う。無惨を倒し、家に帰りたいと思う炭治郎とは対照的に、無惨には家が無い。帰る場所もない。恐らく本物の不死を手に入れたとして、そこから進みたいと思う場所も、無いのだろう。

停滞や逃げは、時として自分を傷つけない最適な手段だと言えるかもしれない。それを選びたくなったことの無い人間が、この世にどれほどいるだろうか。けれどその先に道はない。繋がる未来はない。

……分かっていても、逃げたくなるのが人間だ。
辛い事は避けたい。苦しい事は嫌だ。そう思うのは当たり前の事で、だから多くの者が鬼舞辻の誘惑に負ける。

しかし、炭治郎たちはそうではない。
傷付きながらも前に進む大切さを、理解している。
不理解と自己否定に苛まれても、己の力で未来を切り開いていく。

「胸を張って生きろ」
「己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと」
「心を燃やせ 歯を食いしばって前を向け」
「君が足を止めて蹲っても 時間の流れは止まってくれない 共に寄り添って悲しんではくれない」
―第八巻六十六話

『鬼滅の刃』の世界は、決して優しくはない。
残酷で悲しくて、冷たくて暗い。
それがこの作品の魅力で、登場人物の魅力で。
同時に、それに負けず立ち上がり、前を向き突き進む姿勢こそが、『鬼滅の刃』の最たる魅力……なのかも、しれない。

終わりに

もし、いま。
『鬼滅の刃』の連載が終わり、喪失感に駆られている方がこれを読んでいて……もし、これを読んでくださった方が、『肋骨さん』を読んでいないのなら。若しくは、鬼滅が好きなのに『肋骨さん』を読んでいない人間が身近にいたのなら。

読みましょう。読ませましょう。

薄暗さと、そこから見える小さな光明。
『鬼滅の刃』の魅力の一因であったそれは、『肋骨さん』にも描かれています。もしかしたら『肋骨さん』の方が少し暗くて、明かりもまだ小さく見えるかもしれないけれど、鬼滅の源流はここにあって、『肋骨さん』のそれはとても濃いので。

あとやっぱり、リズム感、いいですからね。

読みましょう。読みましょう。

他の短編も面白いですよ。

https://www.shonenjump.com/j/rensai/list/gotoge.html


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