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【火の鳥復活編】人間の脳を人工物にしたらそれは人間なのか?自殺するロボット?究極の難題に挑んだ傑作!

今回は「火の鳥復活編」後編をお届けします

人間の脳のほとんどを人工物にしたらそれは人間なのか?
反対に人間の意志を持つロボットは人間なのか?
哲学的とも言える究極の難題に挑んだ「火の鳥復活編」の後編。

3つのテーマに絞り解説しておりますが
前回は①つめの人間とロボットの恋をご紹介しました。
今回は残りの2つ
②何を以て死と言えるのか
③人間臭さとは

こちらを解説いたします。

前回記事をご覧になっておられない方はぜひご覧ください。


それでは後編言ってみましょう。

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さてそれではテーマの②番目

②「何を以て死と言えるのか」

こちらを見ていきましょう。

いきなりですが死ぬとは一体どういう状態の事を指すのでしょうか。
「死」とは
体が不能になった時なのか?
意識が消えた時なのか?

肉体は不能でも意識だけでも残っていれば
それを生存しているとするなら
意識だけ別のものに移せば理論上は生存していることになります。

(ネタバレしていますのでご注意を)

本編の最後では
電子頭脳の中でレオナとチヒロは意識がひとつになり結ばれますが
これって「人間として」生きていると言えるのでしょうか。

生きているか死んでいるかの二択でいえば
「生きていること」になりますけど
でもこれって「人間として」生きているとは言えなくないですか?

普通に考えれば簡単な事なのですが
…しかしながら我々は今、確実にこっちの世界に向かって進んでいます。
アバターの世界、VRの世界へ

極論言ってしまえば生きていることに
肉体は必要ない世界になろうとしています。
精神だけが生きていれば
それが一番合理的であるような考え方に近づいているのです。

でも手塚先生は合理的な選択に行き着いた
人類はバカ野郎と警告しているような気がします。

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人体改造の技術は進んでいるけれども
人類のいきつくところは一体どこに向かうのか?

人間の記憶をロボットに移植して生き永らえる事は、はたしてどうなのか?
新しい肉体に記憶さえ移せば
これが未来の「不老不死」であるかのような
人類の進化論に対して警告していると思うんですよね。

これは前編でも少し触れましたが
これにより生殖行動に無頓着になり
種の存続を否定した生物が生き残る先には何が残るんだと…

そこには「何も残らない残らないんだぞ」と言っているような気がします。

科学の領域を越えて人間を超越したものに向かう今だからこそ
「人間の本来の姿」を問うべきなのではということです。

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「何を以て死と言えるのか」


これに対し常々「脳」と「意識」について考えてきた解剖学者・養老孟司さんはこう指摘しています

「人として「生きている」ことの定義がない以上
「死」も定義できない」

まさしく「死」とは生物学上の概念ではなく
「生きている」ことを定義しないと見えてこないものなんですね。

本作でレオナは生きているのか死んでいるのか分からない苦悩を抱えます。

それは「生きていく」ことに悩んだからです。
悩むこと、苦しむこと、それこそが生きている証です
手塚先生は他の作品でも
他の火の鳥でも常にドロ臭くも生きていく事が
人間であると言うメッセージを残しています。

「死」に向き合うことで見えてくる「生命」の価値
「死」を描くことで「生きて」いる喜びを感じることができるという
対比描写を手塚先生は頻繁に使用するのですが
これは手塚先生が実際に経験した戦争体験が大きく影響しています。
青年期に死を覚悟した経験があるからこそ
誰よりも生きることへの執着が際立っているんですね。



この「火の鳥復活編」でも「人間ではない」という対比描写によって
「生きていく」というメッセージを問いかけてきます。

しかし現代に生きる我々にはこのまま科学が進歩し
本当に死ねない時代にならないと
人間は真剣に「生きる」意味を考えないのかもしれません。


人類がマジで直面するかもしれない未来を描いた「復活編」
今から50年も前というエンタメが成熟していない時代に
これだけのメッセージを込めた手塚治虫って末恐ろしい作家です
そしてそれをしっかりと娯楽作品にしているのも驚異的。

「何を以て死と言えるのか」

「死」を考えるということは
「生きていること」を改めて考えるということ

人類の在り方を再定義する凄まじいメッセージではないでしょうか。

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続いて最後3つ目


③人間臭さとは

本作でロビタは、その人間臭さゆえに、人に愛され
その反対に人間臭さ故に罰せられることになります

その人間臭さの最大の特徴は「しかし…」という口癖
この「しかし」が愛らしく人間っぽさを表しているんですが
この口癖が時に人間には反抗的、生意気に聞こえちゃうんですね

そしてそれが原因となって最後には排除される原因になってしまいます。

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AIのように意識や判断能力があるだけでは
人は「人間っぽさ」を感じません。

そもそも人間と機械の境界ってどこでしょう
自我があることなのでしょうか?
はたまた感情が理解できることなのでしょうか?

意識や感情があることが人間の定義だとすると
人工知能の発達によって感情を持つロボットができると
それは人間を作り出すことが可能ということになります

シリ(Siri)なんかもそうですよね。
今後益々人間っぽくなっていくと思います

じゃあそれが「人間」と「機械」との境界線になるのかと言えば…
ちょっと微妙な感じがしますよね


手塚先生はこの復活編の中ではこう描いています。
ロビタというロボットが自分は人間だと主張し
人間だと主張する根拠として

①人を攻撃できる、殺せる
②自殺ができる

としています。

人の感情が分かるとか意識があるとかそんなんじゃないんです。
私はロボットだけど人を傷つけることもできるし自殺もできる
「だから人間だ」と言っているわけですよ。

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めちゃくちゃドキっとしません?


自殺なんてまさに人間固有の行動なのかもしれません。

動物は人間より本能に忠実なので
自殺のような本能に逆らう選択肢というのはないのだと思います。

ロボットにしても合理的に考えた末に自爆なんて事にはなりませんからね

つまりは自殺したり、ある種の不完全さこそが人間臭さなんだと
手塚先生は言っているわけですね。

「死」を描くことで「生きる」ことを賛美する
対比描写は手塚作品のまさに真骨頂
自殺ができる…
それこそが人間である証拠であると。
恐ろしくも深いメッセージです、、、、、すごすぎ。


他にも本作ではこれが人間臭さなのでは?
と思えるような描写がたくさん出てきます。

ロビタの口癖が「しかし…」といったり
人間に愛されることで変わっていったチヒロの
愛されることが人間らしさ
なのか、はたまた
愛されたいと思うことが人間らしさ
なのか、孤独で生きていけないと感じたレオナ
孤独を寂しいと感じることが人間らしさ
なのか
メインキャラ3名のロボットがそれぞれ
人間とロボットの境界線上で苦悩していく描写は見事の一言です。

何を以て人間らしさとするのか?
これは非常に難しい定義ですよね。
そのひとつの定義として「火の鳥」では
「不完全さ」こそが人間らしさと定義していると思います。

不完全だからこそ悩み苦しむ、そしてそれを乗り越えようとすることが
「人間」である定義なのではないでしょうか。
「ブッダ」「ブラックジャック」など「生命」を扱う作品の中にはいつも「生きる」ことに苦悩するキャラクターが描かれています。
きっと手塚先生の中に「不完全さ」こそが「人間らしさ」であるという
定義があるのは間違いないでしょう。

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ここまで本作のポイント3つを見てきました。
難解な解説になってしまいましたが大丈夫でしたでしょうか。
かなり哲学的な解釈になってしまいましたが
この作品はAIと人間との純愛にどう折り合いをつけるか
という話では留まらないとボクは思います。

愛のカタチこそ人それぞれ勝手なので
アレコレ言うつもりはないですが人類が向かうのは
決してそっち側ではないということです。

恋をする相手が必ずしも人間じゃなくてもいいという世界
これは恐ろしいですよ。

これは何でも言うことを聞いてくれる
いつでもどこでも1クリックで自分の欲求を満たしてくれる
相手のご機嫌を伺う必要もない
無駄なコミュニケーションを取る必要もない

奇しくも今そういう時代に向かってきています。

テクノロジーの進化によって人間関係が希薄になっていく未来であったり
肉体の接触を否定するような合理的な思想であったり
それこそ種の存続を否定するような
未来というのは手塚先生は絶対に描きません。

「生命賛歌」という火の鳥における大テーマ

火の鳥は「不死」の象徴と同時に「死と復活」の象徴でもあります。
永遠という概念は「死なない」ということでもありますが
「繰り返す」という意味も含んでいます。

それは火の鳥シリーズを読めばわかりますが
「死と復活」を繰り返し人間のあるべき姿を問いかけてくる作品です。
どこで区切るとか、線引きするとかと言うことでもなく
転生輪廻するようにこの世に何度も生まれ変わり
永劫回帰、続いていくという壮大な物語、
それこそが火の鳥の一環したテーマであります。

この「復活編」の前作「鳳凰編」は
手塚治虫の最高到達点ともいわれておりますが
その余韻を残した破壊力がこの作品にも宿っています。
「黎明」「未来」「ヤマト」「宇宙」「鳳凰」と続いての
「復活」この並びは本当にヤバイですね。

この火の鳥復活編は舞台をSFとして
これから人類が向かうであろう未来を、
最高級のエンターテイエント作品としてまとめ上げられています。

1970年の作品ですから今から50年も前の作品になるわけですが
2020年を生きる我々が今見ても新鮮に感じるこのマンガを遥か前に描いていたのは、もはや圧巻、神業と言わざるを得ません。
もう溢れ出る才能が迸ってますよ、ほんと。すごすぎてビビリます

しかも普通の漫画家であれば何十巻となるところを
これだけのページ数で完結させているのは天才手塚治虫ならでは。
このSFマンガだけは絶対に観たほうがいいマンガです、マジです。

手塚治虫が示した人類の進化論
ぜひその目で体感してみてください。

芸術やエンターテイメントを論じるときに
「正解」なんてものはありません。

捉え方の違いであったり価値観の違いであったり
人それぞれの解釈が生まれることと思います。

特にこの火の鳥にはそういった要素が多く含まれていますので
今回のこの動画もひとつの参考程度にみなさんそれぞれの
手塚先生が伝えたかったこと、「手塚コード」を探ってみてください。

次回はこちら




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