私の履歴書

 私は誰かの期待に応えようと努めてきた。それは両親であったり、友人であったり、先生であったり、恋人であったりした。私は誰かの期待に応えてきただろうか?彼らの期待に誠実であったであろうか。私は否と答えるだろう。私はどちらかというと自分本位な人間で誰かの期待には応えてきてはいないように思える。逆に私は誰かに期待することはあっただろうか?もちろん私は誰かに期待はしたと思う。もし私の願いが叶うならば期待もするだろう。しかし当たり前のように人は自分の期待通りにはならない。と同時に私も誰かの期待通りにはならない。でも人に期待されるということは悪いことではないように私には思える。むしろ人に期待されないより期待された方がいいと私は思える。それは何故かという問いに私の経験を元に答えていこうと思う。

 例えば世間に親の期待に応えていい学校、大企業に就職するという風潮がある。本人が望んでいい学校、大企業に就職するなら問題ないが親の期待に応えて道を進んだとする。しかし一人の青年は人生の途中である問いに気づく。いったい自分はこの先どうしたらいいんだ。自分はいったい何者なのだ。自分は何をしたいんだ。その青年は私自身のことだったからだ。私は親の期待に応えて人生を進んできたけれどある日人生の途中で私自身に気づいた。何かをやった方がいいけど何をやっていいか本人にはわからない。

私は大学を休学し、ワーキングホリデーの制度を利用してオーストラリアに滞在し、旅をした。私は海外に行ったことで勘違いをした一人である。海外では当たり前のことが日本では当たり前ではないと主張する海外かぶれの勘違いではない。私が述べたいのはそういう類いのものではない。私は何でもできるという思い上がった勘違いをしてしまったのだ。

私は大学を卒業し、長野県に本社を置く機械メーカーで正社員として働くことになる。私たち新入社員は会社に期待されていた。同僚は親切で人は温かかった。新人を育てようという気風があった。

ところが私は統合失調症を発症してしまう。人生ががらりと変わる節目だった。私は人から期待される人生から期待されない人生に変わった。2000年代初期統合失調症はまだ社会から今現在ほど受け入られていなかった。今でも統合失調症の障害者は社会から受けいれられているとは言いがたい。でも2000年代はもっとひどかった。私のような精神障害者の通える場所はデイケアと作業所くらいしか選択肢がなかった。ひどい時代だった。

期待されない人生とはどういうものか。例えばハローワークに仕事を探しに行く。20代の若者が仕事を探しに行って、あなたのような精神障害者に紹介できる仕事はないとハローワークの職員に告げられるのだ。彼らに紹介される職場は精神障害者が利用する福祉施設なのだ。福祉施設でまともにお金を稼げないからハローワークに仕事を探しに来たのに、職員に福祉施設を紹介される。こんな馬鹿な話があるだろうか。

社会から期待されない私はデイケアに通い、福祉施設に通う。デイケアや福祉施設には私と同じような時間を持て余した精神障害者の仲間が集まっていた。上手く人間関係が作れない私は煙草を吸いながら仲間と無為な時間を過ごした。私は仲間と特に親しくなろうとも思わなかったし、そんな私に親しくなろうとする仲間も周りにいなかった。

私には健常者の友人が何人かいる。彼らは私に期待をしている数少ない社会人だった。友人は私が社会復帰をすることを決して疑わなかった。何故なら彼らは私と一緒に遊んだり、どこかに出かけたりして、何の支障もないことを知っていた。遊ぶことはできて仕事はできないということがあるだろうかと私も友人も当時考えていた。

お天道様は見ているもので行き場のなかった私のことをなんとかしてやろうという人もいる。例えば通院している病院のケースワーカーや障害者職業センターの職員には大変お世話になった。2000年代半ばの頃はまだ精神障害者向けの就労支援センターとかの類いの仕組みはなかったと記憶している。幸か不幸かわからないが個人の裁量で支援をできた時代でもあった。私は彼らの力を借りて、社会復帰をして彼らの期待に応えようと努めた。私一人の力では社会復帰はできないが支援してくれる人の力を借りてなら社会復帰できるように思えた。

私は支援機関の力を借りて東京都に本社を置く人材派遣会社のパートタイムの事務補助の仕事を得る。支援機関の力を借りることは決して悪ではない。例えるとアパートを借りるための保証人のようなものだ。企業にとって支援機関を通すことはどこのものかわからない精神障害者を雇うリスクを減らすためでもある。

障害者雇用で雇われた私は精神障害を抱えながら働くということを甘く見ていた。私は友人とも意思疎通が取れていたし、統合失調症を発症後でもTOEICや日商簿記検定3級の資格を取れていたから仕事も普通にできるだろうと考えていた。私は自分の精神障害を考慮していなかった。例えば緊張のしやすさ、神経過敏、数年のひきこもりからくる社会人としての自信のなさ、周囲からどう思われているのだろうかという被害妄想。悩みは尽きなかった。精神障害を抱えて働くということがこんなにしんどいとは考えていなかったのだ。

私の勤めている職場には幸いにも寛容な同僚が多かった。同僚は精神障害に対して知識があったわけではない。彼らは私を精神障害者だからといって差別をしなかった。同僚は皆自分の仕事のことで精一杯だった。会社は私の仕事に多くを期待していなかったように思う。それが結果的に幸いした。私は自分の体調と折り合いをつけながら働く習慣を自然と身につけることができた。後はいかに仕事を続けることが問題となってくる。仕事を長く続けることは健常者、障害者にとって共通の問題だ。私は転職に対して消極的だ。転職することに対して私は否定をしない。能力があればいい給与を求めて、あるいはやりたい仕事があるなら転職をするのはいいことだと思う。

私はリーマンショック後、人材派遣会社の仕事を失った。その後銀行の特例子会社でアルバイトをする。私は特例子会社で働くことは向いてなかった。しかし縁あってまた人材派遣会社で再雇用される。世間の荒波にもまれて私は自分というものを知るようになる。私は特別に何か仕事のスキルあるわけでもない。だからと言って私の障害は悲観するほどひどいものでもない。無理をしなければ地域で普通に生活できる。平日働いて、休日はテニススクールに通ったり、映画を観たり、競馬をやったり、生活を楽しむことができる。今では連休に日本を旅行し、海外旅行に行けるまで病状は回復した。仕事のある生活を足かけ15年間続けている

私がやれたことはそこまでだった。私はもう自分が何者であるかという青年だった私の問いに答えることはできない。世情に流され行き着いた所は今の場所である。やれることはやった。どうやらここら辺が私の統合失調症と共に過ごしたお話の終着点だろう。今の私は何かを求めて、自分が何者かを探していた時期が私にとってかけがえのない宝物だったような気がする。統合失調症を発症し、デイケアや福祉施設でくすぶっていた時期、煙草を吸いながら、自分探しをしていた。私はもうあの頃には戻れない。

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