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42歳で大手日本企業から外資系スタートアップに転職した話

書こうと思った経緯

通信キャリアに勤めながら42歳になった私は、将来性に迷うようになった。10年後の自分は52歳になっている。会社の52歳の人を見ると、KPIに追われる中間管理職か役職を若手に受け渡してラインを外れたおじさんしかいなかった。


自分が熱中できない仕事をこれから10年やり続けて中間管理職としてすごすのがゴールなんだろうか。役職を上げるにはどんな理不尽な事にも対応する人か他人を蹴落として自分をよく見せる人にならなければいけない。


そう思うとだんだん仕事に本気を出せなくなってきた。日々のタスクをこなして土日や連休を待つ日々を一年くらい過ごした。仕事の成果も上がらなくなって来て鬱々とした日々を過ごしていた。


このままでいいのかと考えて40代でキャリアに悩んでる人のブログやTwitterを探したが、参考になる情報が全然出てこなかった。転職エージェント関係の記事は出てくるんだけど偏ってそうであまり信用できない気がした。


なぜこんなに情報が少ないか仮説は二つ。一つは今の環境に慣れ過ぎてしまって思考停止して、疑問が出ても飲み込んでしまい、考えないようにしている説。私はこの状態になりかけていた。キャリアゴールって何って聞かれても明確に答えられなかった。この先今の会社にいてもほとんど出世も見込めず何周も頭打ちになることがわかっていても、そこから何かを変える勇気がなく、本気で自分のキャリアを考えることから逃げていた。


もう一つは、会社や家庭である程度の立場があるので弱音を吐けない説。これも身に覚えがある。マネージメントに足枷になるので部下には弱音を見せられない。評価に関わるので上司にも弱い部分は見せられない。ブログやTwitterで匿名で呟くモチベーションもない。


今回、4回目の転職で通信キャリアからシリコンバレースタートアップに転職して、人生で初めて本気でキャリアについて考えた。キャリアゴールを本気で考えて、自分のキャリアを棚卸して、進むべき道を見つけて、変化する恐怖を乗り越えて意思決定をした。この経験は必ず悩んでいる誰かの役に立つと思うので、文章にして残す事にした。


自分の経歴

社会人になる前

高校時代は映画にハマっていた。WOWOWで1年間に100本以上の映画を見て、一作品ずつに点数をつけていた。映画監督になりたくて、日大映画学部を受験したけど落ちた。映画部のある大学に進学した。大学では念願の映画部に入ったけど、自称サブカル好きみたいな人が多くてすぐに退部した。その後、演劇サークルに入って、演劇とパチンコにのめり込む。演劇は人生で初めて本気で打ち込んだ。2年間、毎年4本の公演を行った。毎日朝から晩まで稽古や舞台作り、宣伝を行った。3年生で引退することになっていたが、最後の公演が終わった後の打ち上げ終了後に道を歩いていると急に張り合いがなくなってなんとも言えない喪失感に襲われた。その後、同じように引退して目的を失った仲間と劇団を作って座長になって演出と脚本を担当した。自分達で劇場を借りて、宣伝して、集客して、利益を次の公演の資金に回す。今考えると、学生で小さなビジネスをやっていたんだと思う。赤字だったけど。私はその後この時の熱狂を追い続けることになる。


大学を留年して4年生と5年生の2年間学生と劇団の活動を行った。この時父親が死んだ。親の脛をかじれないなという思いと、劇団で食っていくことに限界を感じていたので、仲間たちに劇団を辞めることを伝えて、就職活動を始めた。5年生の秋だった。就職氷河期末期でただでさえ求人がない中、完全に就職活動のピークは過ぎていた。当時まだ売上が200億円もない楽天が秋採用をしていて会社説明会を受けに行ったが、春の採用に間に合わなかった留学生向けの募集とのことで場違い感が半端なかった。楽天は1次面接で不採用だった。そのほかも色々な企業を受けたが箸にも棒にもかからなかった。見かねた親戚がコネで財閥系メーカーの子会社の専門商社を紹介してくれて、その会社に入社させてもらった。


財閥系一部上場メーカー子会社時代 23歳から26歳

専門商社に入社して3ヶ月後に親会社の一部上場メーカーに出向してメーカー営業として勉強をすることになった。最初は1年間程度の予定だったが、色々仕事をしていたので出向期間が2回延長になって結局3年間メーカーで働いた。メーカー営業としての仕事が楽しくなって、出向解除になる前に財閥系一部上場メーカーに転職することにした。この時の転職は、前向きな転職だった。社会人3年目で26歳くらいだった。


財閥系一部上場メーカー時代 26歳から35歳

国内の営業組織に配属になった。そこは工場で働いていた高卒の社員が営業として配属された組織だった。40代近い高卒のおじさんの中で私は一人だけ20代で大卒だった。この環境で私は指導という名の激しいパワハラを受ける。最初は本当に指導だと思っていたので、どんな言葉も受け取っていたけど、後々それがただのいじめだったことに気づくことになる。30歳の時に私はエース営業として部内で一番顧客数を持っていた。2011年3月11日に東日本大震災が起こる。当時働いていた会社のメイン工場が福島にあり甚大な被害に遭い、工場の操業が止まってしまった。当時、その会社の製品は半導体業界で世界の7割程度のシェアを持っていた。この工場が動かなくなるとどうなるかというと、世界中の半導体の生産が止まってしまう。世界中から問い合わせが殺到した。私はその問合せをモロに受け止めて完全にオーバーワークになってしまった。顧客からの激しいプレッシャーを受けて、今まで指導という名のしごきをしてきたおじさん達に相談したところ、自分で考えろと言われた。平時にあれだけ偉そうにしていた人たちが、緊急事態で手のひらを返したように私の状況を見てみぬふりをする。そこであれが指導ではなくて、ただのいじめだったと気づいた。


ストレスチェックでカウンセリングを受けるように指示が出たのでカウンセラーに相談しに行った。そこでカウンセラーから上司に相談するようにアドバイスをもらったので、上司に相談した。その後、業務負荷を減らすとのことで、営業の仕事を外されて、営業企画に変更になった。超多忙から全く仕事がなくなり、生活に張り合いがなくなり症状は悪化した。管理職が部下を病ませないための処置にも思えた。私の問題は過労とパワハラで働くモチベーションは高かったのに、この対応はないだろうと思った。


故障者リスト扱いをされて、会社に頼っていては先がなさそうだと悟った。私は兼ねてから興味のあったMBAを取得するために勉強を始めた。勉強開始から2年目で大学院に入学できて2年間パートタイムでMBAを取得した。圧倒的な経験値の差でマウントをとってくる高卒パワハラ上司に理詰めで勝ちたいという思いもあった。


MBAを取得したり、仕事も企画から開発や海外営業や新規事業立ち上げなど徐々に新しい仕事に挑戦することができるようになって来た。並行していつか起業したいとう思いが出てきて、事業計画を作ってスタートアップコンテストなんかに参加するようになった。この頃から副業で海外から輸入したものをAmaoznやYahooショッピングで売るっていう仕事を始めた。


会社は安定していたが漠然とした不満を抱えていた。魂が燃えるような仕事がしたい!という気持ちが強くて、転職活動を続けていた。35歳の時に3社目に転職することになる。


グローバルメーカーからカーブアウトした新会社時代 35歳から37歳

3社目は経営が傾いたグローバルメーカーからカーブアウトした200人程度の会社だった。その会社が新事業を立ち上げて、エンジニアしかいない状態でセールスができる人材を探していて私がうまくハマった。私はスタートアップに転職したつもりだったけど、中身は大企業の1事業部という感じだった。当初はセールスとして色々動いていたが、徐々に社風が自分が求めていたスタートアップ気質とは違うことがわかって来た。


投資ファンドから送り込まれてきた社長の下で働いていたが、その社長が投資ファンドと喧嘩別れして辞任してしまった。次に送り込まれてきた社長も現場をうまくハンドルできずに社内がうまく回っていないのを肌で感じていた。私は現場と社長の間に挟まれてストレスがマックスになっていた。このまま、ここにいてられないと思い再度転職活動を始めた。今振り返ると、組織のゴタゴタを自分が背負うには経験値がなさすぎた。今ならもう少しうまくやれる気がする。まあ、成長したってことだろう。



通信キャリアの社内スタートアップ時代 37歳から41歳

転職活動をしているうちに通信キャリアの社内ベンチャーの募集があって内定をもらえた。通信キャリアに入るまでは15年くらいメーカーで働いていたので初めてメーカー以外の業界に転職した。IT業界素人だったので最初は勉強の毎日だった。基礎知識を身につけて会社になれた入社半年後くらいで実績をつけることができてきた。入社して1年後に課長になって、次の年に管理職に昇進した。


順調に実績を積んでいたんだけど、2020年の緊急事態宣言から状況が変わった。仕事がほとんど止まってしまい、会社の成長も止まった。ベンチャーだったのでこのままいくと会社の存続が危ない状況であった。マネージャーとして、社長の下で営業組織の刷新と市場開拓をミッションとして持って全力で仕事をした。土日も仕事をして週休1日もない生活を続けた。が、そのまま会社は清算されて本体に吸収された。自分もマネージャーから外されてやる気がなくなってしまった。


失意の中転職活動をしてGAFAから 年収1,500万円以上で内定をもらったけど、周りに引き止められて自分でも一歯車になるのはなあ、と思い辞退した。


通信キャリアのプロダクト企画時代 41歳から42歳

本体の通信キャリアの企画部門に移動した。課長から担当課長になって自分のチームは無くなった。失意の中からなんとか復活しようとして、自分で面白くなりそうな仕事を見つけてプロジェクト化して動かしていた。並行して副業に本腰を入れて、月10万円くらい稼げるようにもなっていた。


大企業の1メンバーとして働いてたんだけど、全然仕事が楽しくなく苦しんでいた。このままいくと50代で部長くらいになって、その後役職定年でヒラとして10年くらい現場で働いて終わる未来が見えていた。頑張ってさらに上に行っても数字に追われて、数字の奴隷みたいになっているおじさんしか見えなかった。本気で仕事を楽しんで全部を出し切って生きている人は本当に上にいる一握りのように見えていた。


40代になって、次の10年間何をしたいか本気で考えた。出てきたのは3つ。

・英語を使って世界で仕事をする

・ITとリアルが交わる業界でセールスとしてプロになる

・スタートアップフェーズの会社を成長させるプロになる


この3つをベースに転職活動を始めた。今回の転職活動では、英語と業界とセールスのプロフェッショナルという軸で応募することで、書類も一次面接も通過率が格段に上がった。最終的に外資のスタートアップから内定をもらって年収も上がって、したいことができる環境を手に入れることができた。自分の経験と強みを見極めて、それが求められている会社を探せれば40代でも転職可能だということがよくわかった。次行く会社もスタートアップで今後どうなるかわかないけど、自分の強みを伸ばしていけば会社に頼らずに生きていける自信がついた。この自身もあり、安定した通信キャリアでの仕事を捨てて、あたらしい環境にチャレンジすることにした。



マインドの話

JTCで良いのか?

JTCで15年くらい働いてきた経験から言うと、JTCで大きな疑問も夢も持たずにライスワークと割り切って生きている人は一番幸せだと思う。私はチャレンジしたいとか、仕事に全力でコミットしたいという思いがあってJTCでゆっくりじっくり生きていく方法を選ぶことができなかった。私のような疑問を持っている人は一度じっくり考えてみることをお勧めする。本当にこのまま定年まで会社の枠の中で生きていくのが幸せか、それともチャレンジすることが幸せか。


10年弱務めたJTCをやめるときに不安はあった。その後、2回転職することになるんだけど、転職するたびに自分の市場価値が上がって年収も上がっている。自分を守ってくれる会社という存在は無くなったけど、プロとしてどんな環境でも生きていける自分の力みたいなのは持てるようになった。20年くらいJTCに勤めた管理職の人が転職しようとしてもどこも行き先がないと思うけど、私はどこの会社にでもいける自信がある。この差がキャリアの違いなんだろうな。


市場価値を知る事

今回の転職で感じたのは自分の市場価値が高い業界があること。私の場合、IT業界と製造業界の両方の経験、新規事業の立ち上げ経験、セールスとしての経験、英語力、の4つを組み合わせると、日本でもトップクラスの人材になることがわかった。この4つの特徴を求められる求人では非常に強かった。


これも転職活動をしなければ気づけなかったことだ。同じ会社にいると普通に感じる経験も、外から見ると喉から手が出るほど欲しい経験だったりする。


自分の経験を棚卸して、どれくらい需要があるかを実際に転職サイトに登録してみて確かめることができた。私の場合は、業界を絞ればどこにでも転職できるという自信を持つことができて、転職に踏み切ることができた。


プロとして生きていく事

4回目の転職なので、次がダメだったらもうJTCに転職することは無理だとうなとの思いはあった。JTCに転職できないということは、日本の終身雇用を前提とした会社が生活を守ってくれる人生に戻れないということ。代わりに、自分で仕事を見つけて、自分で会社と契約して、自分でお金を稼ぐ世界が待っている。


会社員として会社に所属していることでお金をもらうのではなくて、独立したプロとして、自分のアウトプットに対してお金をもらう世界。この世界に足を踏み入れる覚悟をした。


恐れていたけど、英語ができれば世界中の企業が就職先として選択肢になる。日本市場ってまだまだ大きな市場なので、日本市場に精通しているという経験も外資系企業からすると大きな魅力に見える。覚悟さえできてしまえば路頭に迷う可能性はそんなにないと判断した。逆にJTCにずっといて、会社が傾いて外に出される方が怖い。40代の世界から見たら子供みたいなおじさんがなんのスキルも覚悟もなく外に出された方が辛いと思う。


今回の転職で気づいた事

-自分を知る。キャリアの組み合わせの威力

経験と自分の強みを組み合わせることで市場価値が格段に上がる。繰り返しなるが、私の場合は

①IT業界と製造業界両方の経験

②新規事業の立ち上げ経験

③セールスとしての経験

④英語力

の4つを組み合わせることで、書類選考と面接の突破力が格段に上がった。

一つずつの経験はたいしたものではないけど、4つ組み合わせるとなかなか他の人にはない特徴になる。


-戦う市場を選ぶ

今までの経験を組み合わせて強い特徴を見つけたら、次はそれが活かせる市場を探す。

私はクラウド系の仕事をしていたので、クラウドやSaaS、PaaS領域で転職活動をしていた。

クラウド系の業界は成長市場でポジションはたくさんあった。

その中で自分の強みの製造業での経験や新規事業の立ち上げなどを組み合わせるとその中でも特徴を出せた。


成長市場を狙って、経験を組み合わせてその中で特徴を出すのが必勝法なのではないかと思う。


-相手を知る事

今回の転職で良かったのは、採用する側の視点を持つことができたことだと思う。40代になって採用面接したり、自分のチームを持つようになったりしたので、視点が広がった。採用マネージャーのミッションを推測して、どんな人がいると助かるかを理解してその人材像に自分の経歴を寄せていった。採用マネージャーが社内で話を通しやすくなるようなエピソードを選んで話をすることで、面接の通過率が上がった。

-次の次を考える

今回の転職では外資かスタートアップを狙っていた。外資は成績が悪いと外に出されるし、スタートアップは会社自体がなくなるかもしれない。なので転職を決めるときは次の次も考えて意思決定をした。最終的に外資のスタートアップに行くことにしたが、考えていたのは次のこと。まず、その市場で新規開拓の経験を積めばさらに自分の経験の希少価値が上がる。英語を使う環境なので、英語力も向上するはず。海外のチームとの連携経験も次につながる。年収も上がるので、次の次もこの年収ベースで探すことができる。外資で自分の力で生きていく覚悟さえできれば、次の次も見つけることができるという自信ができたのであまり不安はなく転職の決心をすることができた。

最後に

今回の転職でキャリアについて本気で考えて、大手通信キャリアから外資系スタートアップに転職を決めた。今は、チャレンジできること、プロとして自分の力で生きていく決意ができたことでワクワクしている。

アーリーフェーズのスタートアップなので将来どうなるかわからないけど、今の所年収は35%くらい上がるし、ストックオプションももらえる。待遇面では上がった。

チャレンジングな仕事に、オーナーシップを持って臨めることも自分のやりたいことを実現できるので良いと思っている。

ただ良いことだけではなくて、いろんなハードシングスがこれから待ち受けているんだろうという覚悟もある。これからどうなるか、また更新したいと思う。

ただ、40代のおじさんでも悩んでるんだよってことが同世代の人やこれから40代になる人に共有できれば良かったと思う。悩んでるのはあなた一人じゃないよってことを知ってもらえて、少しでも悩んでる人のプラスになれば嬉しいです。

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