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ラズベリーと鶏卵

 よく晴れた金曜の昼下がりに、クローゼットから丁寧に取り出した一等お気に入りのコートを着て博物館に向かった。このチェスターコートの深い緑は、いつも私に鬱蒼と茂った森を思わせる。小さく鼻歌を歌いながらステップを踏むようにして歩くと、ときどき両耳に下がった金のピアスが揺れた。博物館までは徒歩で40分くらいかかるけれど、今日は日差しが暖かい絶好の散歩日和だし、更に明日は土曜だ。何もかもが完璧だった。

 夕ヶ丘市立博物館には子どもの頃から頻繁に足を運んでいる。たいして大きな博物館ではないし、展示物も企画も多くないので、大抵の人は一度だか二度訪れると早々に忘れていく。でも私は、この孤独な博物館の内臓の欠片、つまり、例えばなだらかな曲線を描くマンモスの牙や、等間隔に並ぶうつくしい昆虫標本や、青々と草木が茂るニセの河原や、天井から壁に描かれた夕暮れや、プラネタリウムのひんやりとした光が好きでいくら見ていても飽きなかった。それらはいつも変わらず私を迎え入れてくれたから、学校にあまり行けない子どもだった私は毎日のように通っては展示物を眺めて周り、周り終わると二階の小さな図書室で日が暮れるまで本を読んで過ごした。博物館は私を果てしなく広大で静かで生温かい、何もない空間にかくまってくれているようだった。

 先々週の土曜に訪れた時に見つけたポスターの情報が、私を平日昼間の博物館に向かわせている。信号を待つ間にもう一度、ポスターを収めた写真をスマートフォンに表示した。
『化石実食会』と書かれた大きな文字の下の小さな文字を拡大し、『金曜:14:00~14:30』と書かれていることを確認すると腕時計を見た。時計の針は13:48を指している。開始時刻にちょうど間に合いそうだ。

 館内に入ると企画会場である「いのちの生い立ち」スペースに向かう。ここは主に古代生物の化石が置かれている展示場で、今回人々に振る舞われるのはそこにあるディノニクスという名の、大きな鉤爪を持つ小型肉食恐竜の化石らしい。その恐竜はいつも私を迎えてくれたものたちの中のひとつだ。

 会場には係りと思わしき20代後半くらいの女の人ひとりしかいない。彼女は艶やかな黒髪を頭の低い位置で団子にしていて、博物館の制服であるシンプルな紺のワンピースの上に短めの黒いエプロンをかけていた。ヒールを履いたすらりとした脚の先は上品に揃えられている。彼女はディノニクスの傍にスチールのキッチンワゴンと共に立っていた。ワゴンの一番上の天板にはいくつかの使い捨ての銀の小皿と透明なプラスチックのスプーンが並べられ、二番目の天板には白いミニルーターがそっと横たえられている。彼女は私に気がつくと、にっこり微笑んで「こんにちは。」と声をかけた。気持ちのいい素敵な笑顔だった。

 「こんにちは。意外と人が少ないですね。」と私も声をかけた。彼女は眉尻をちょっと下げてみせて、「そうなんですよ、ちょうど中日だからでしょうか。明日明後日には皆さんいらっしゃると良いのですが。」と答えた。館内にはほとんど人の気配がない。私ひとりしか来館者がいないようだった。「こんなに面白い企画なのに不思議ですね。私、今日、仕事を休んで来たんですよ。」と人混みが苦手な私が言うと、彼女は目を丸くした後、ほんとうに嬉しそうに笑って「ありがとうございます。」と言った。彼女は接客と博物館が大好きなようであった。

 「では早速、化石を削っていきますね。」そう言うと彼女は薄い布手袋をするりとはめて、ペンを扱うみたいにミニルーターを軽やかに右手で持つと先端の歯を化石に当て、左手で銀の小皿をその下に添えた。低いモーター音が段々と高くなっていき、しんとした遠い天井にこだまする。皿の上には最初に朽葉色の粗粉が、次に灰のように細かい乳白色の粒子が燦々と落ちていった。驚いた私が「中は白いんですね。」と少し大きな声で言うと、「実はそうなんですよ。内側は外の影響をほとんど受けずに、白いまま鉱物化するんです。あまり知られていませんけどね。」と彼女もさっきより大きな声で答えた。銀の大地に白い丘をこしらえると、彼女はミニルーターのスイッチを切り、その小さな砂丘にさっとスプーンを添えてどうぞと私に手渡した。

 私がまじまじとこれを見ながら「食べられるものなんですね。」と言うと、「はい。動物の骨は漢方にも使われておりますし、食べても害はないんです。ただ、普通はあまり進んで食べようとは思わないだけで。」と彼女は言ってちょっと肩をすくめる。私はくすっと笑ってから、スプーンに乗せた古代生物のほんの一部を口に入れた。

 予想に反して、口内に甘美な香りが広がっていった。やや酸味のある芳醇できめ細やかな粉体がサラサラと舌の上を心地良く流れてゆく。あんまり驚いて、2、3回続けてスプーンを口に運んだ後、やっと私は「美味しい。」と喉から声を絞り出した。
 「ラズベリーみたいな香りがしますよね。」と彼女がチャーミングな笑顔で言った。そうだ、何かに似ていると思ったけれど、まさにラズベリーだ。私は彼女の目を見ながら大きく納得して頷くと、「なぜこんな味がするんですか?」と尋ねた。ずっと昔から親しんできたはずなのに、急にこの小型恐竜が全く知らない冷たい鉱物に感じられた。
 「実は詳しくは分かっていないんです。分かっていることは、骨の中でも化石にしかこの味がしないことと、宇宙の遥か彼方の、天の川銀河の中央でも同じ香りがするということだけです。この世界には、まだ解明されていない数多くの摂理が散りばめられていて、私たちはただ事実を事実として受け入れて行くしかないんだと思います。」と真剣な顔つきで言ってから、彼女の表情は柔らかく戻った。「それにしても不思議ですよね。」

 その後いつものように館内を巡回し、プラネタリウムの観覧を終えて出入り口近くの土産屋を覗くと、今日初めて私以外の来館者の姿を見つけた。20前後の小柄な女の子で、背中にかかった長い巻き髪が透き通りそうなほど明るい色をしている。彼女は赤いジャムの入った瓶を手に取り、ラベルを親指でなぞりながら何かをじっと点検していた。彼女の目の前に立つ、赤い瓶がずらりと並んだ棚のてっぺんには『化石味のジャム』と書かれた紙が貼られている。どうやらこの五日間限定で販売されているラズベリージャムのようだ。私は彼女の隣に立って同じように瓶を手に取ったけれど、15秒くらい考えてから棚に戻した。レジの店員は実体のない複雑な図形をカウンターに目で延々と描き続けていた。

 外に出ると日の匂いを吸い込みながら大きく伸びをした。まだ太陽は沈んでいないし、午後は損なわれていない。腕時計に目をやると15:24を示している。夕飯を親子丼にすると決めていた私は、卵が安いことで有名なスーパーマーケットに向かって歩いて行った。

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