湯気

 部屋を片付けていると、棚の奥からTSUDAYAのDVDが3枚出てきた。どれも古い邦画だ。一緒に出てきたレシートには、返却予定日が2018年6月14日(木)と記されている。今は2019年の12月だ。僕は血の気が引くのを感じたけれど、できるだけ冷静に、そこに記されているはずの店名を探した。すぐに“赤鳥駅前店”の小さな文字を見つけた。しかしこの文字列が、更に僕に頭を抱えさせた。

 赤鳥駅は僕が住むアパートの最寄り駅である。各駅停車しか止まらない、小さくて平凡な駅だ。どの駅員も無愛想でいつも眠そうな目をしている。窓口は朝の9時から夕方の5時くらいまでしか開いていない。いかにも必要最低限、という感じの、どこにでもある寂れた駅だ。
 ともかくそんな駅から3分ほど歩いた場所にその店は存在する。いや、正しくは"した"。と言うのも、TSUDAYA赤鳥駅前店は去年の8月31日に閉店してしまったからだ。建物の姿形はそのままにして、今は中にあまりパッとしないリサイクルショップが入っている。

 夏と共に消えてしまった店。

 僕は少し考えて、とりあえず2つ隣の駅のTSUDAYAに行ってみることにした。今はそこが1番近い。適当に髪を梳かし、ジャージからジーンズに履き替え、モッズコートを軽くはたいてから羽織って外に出た。電車に乗っている間に、スマートフォンの電卓アプリで延滞料金を計算することにする。さすがに心構えはしておきたい。478,800という数字が表示されると、僕は画面を真っ暗にした。そして深く息を吐きながら車窓の景色を眺めた。

 店に入るとまっすぐ有人レジに向かった。数年前に導入されたセルフレジのおかげで、僕はいつも有人レジに向かう時になんとなくバツの悪い思いをしている。つまり有人レジに向かう客はもれなく、セルフレジでは解決できない何か例外的な問題を抱えている人間なのだ。更に、そのことをその場に居合わせた全ての人間が瞬時に把握できてしまう状況が、毎度僕を少し速足にさせる。今日は特にそうだった。

 レジには、明るい色の巻き髪を後ろでひとつに束ねた、大学生くらいの背の低い女の子が立っていた。僕が事情を説明すると、彼女は一瞬眉をひそめた。そして「少々お待ちください。」と慎重に言ってから奥に引っ込んだ。彼女が後ろを振り向く瞬間、瞼に乗ったラメが薄紅色に煌めいた。

 僕がその残影を空に描いていると、大柄で眼鏡をかけた中年の男が奥から出てきた。前髪が額に張り付いている。「大変お待たせいたしました。」と彼はせかせかとした口調で言った。僕は彼に、さっき彼女にしたのと全く同じ説明をした。
 「なるほど、かしこまりました!ではお手持ちの商品をですね、拝見させて頂きます。」僕はカウンターの上に3枚のDVDとレシートを乗せながら彼に謝った。「本当にすみません。」「いえいえ!それでは延滞料金のほうをですね、計算させて頂きますね。少々お待ち下さい。」そう言うや否や、彼はDVDのケースとパソコンの画面を交互に睨みながら何かをもの凄いスピードで打ち込んでいった。眼鏡に光が反射している。手持ち無沙汰になった僕はさっきの女の子の姿を探したけれど、彼女はどこにも見当たらなかった。
 「…ハイ!お待たせいたしました、お客様の延滞料金のほうがですね、こちらのお値段になります。」と言いながら彼が指し示した金額は、僕の計算より遥かに安かった。「えっ、こんなに安いんですか?僕、相当な期間延滞しましたよ。」少し面食らって、自分のスマートフォンの画面を彼に見せた。「これくらいはするんじゃないですか?」
 彼はじっと画面を見て、ちょっと首を傾げてブツブツ呟いた後、「申し訳ありません、もう少々お待ち下さい!」と言って慌ててまた計算に戻った。無理もない。こんな事態は初めてだろうし、これから先にも起こる可能性は極めて低いだろう。僕は心から彼に同情しながら、不運な大男が時々額の汗を芋虫のような指で拭う様子を眺めていた。
 「大変お待たせいたしました!こちらのお値段ですね。」と彼はもう一度画面を指し示した。さっきよりは高くなったけれど、それでもまだ想定していた額より低い。僕が黙っていると、彼は早口で「お客様のケースの場合、お店が閉店してしまっておりますので、その分少しお安くさせていただきます。遅かれ早かれ処分する在庫になりますのでね、このお値段で大丈夫ですよ。」と言った。僕は礼を言い、クレジットカードで支払った。いくらか安くなったとはいえ、6桁分の現金など持ち合わせている訳がない。山場を超えた安堵からか、優しい眼差しになった男の微笑みから逃れるようにして、入った時より足速に店を後にした。

 外はもうすっかり日が暮れていた。吐く息が白かった。赤鳥駅に着くとコンビニに寄って、カップの味噌ラーメンと缶ビールを買ってから自宅に戻った。掃除を放り出したままの部屋は酷い有り様で、僕は足で物をどかしながら台所に向かった。やかんに水を入れて火にかける。部屋着に着替えてから床に座り、ゆっくりとビールを飲みながら湯が沸くのを待った。しかし沸騰してもしばらくの間は、やかんから出る湯気をただぼんやりと見つめていた。
 ビールを飲み干してしまうと少し力を入れて立ち上がり、カップラーメンに湯を注いだ。それからベランダの窓を開けて、夜空を見上げながら麺を啜った。星を見ようと思ったのだ。しかし星は当たり前のように見当たらなかった。考えてみれば、ここは東京だった。

 カップ麺のスープを流しに捨ててしまうと、僕は雑にシャワーを浴びて髪も乾かさずに布団に潜り込んだ。そしてかたく目を瞑り、浮かんでは消える白いうねりを瞼の裏に描き続けた。

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