青草の夢

 僕が通う高校にはちょっと珍しい行事がある。いや、“ちょっと”ではいささか語弊がある。僕が通う高校には“相当”珍しい行事がある、と言った方が正しいだろう。

 それは年に二回だけ、春と秋のよく晴れた夜に行われる。と言うか、穏やかな季節のよく晴れた夜にしかできない。もっと言うと、最低でも三日は晴天が続いてからでないとできない。何故なら僕らは学校の中庭の芝生の上で、野生の大勢のタヌキと一晩雑魚寝をしないとならないからだ。一体誰が、何の為に始めたのかは誰も知らない。これが僕が通う高校の“相当”変わった伝統行事である。

 もちろん最初に聞いた時は僕も耳を疑ったが、今はもう“そういうもの”で片付けられるくらいには慣れた。何しろ次で四回目だし、どうやら先生や先輩たちがずっと大切に守り続けてきたものらしいし(これまで何度も一部生徒や保護者たちが廃止を求める姿を見てきたが、学校側は『そうは言ってもこの行事は学校資料に明記しているし、入学を選んだのは君たちだろう』と言ってクレームをしりぞけ続けた。もっとも、僕もろくに資料を読まずに受験して、入学後に初めて行事を知った生徒の一人だが、学校の言い分は一応筋が通っているように思う)、だいいち年に二回しかない。最初は反発していた数人のクラスメイトも諦めてきちんと参加するようになっていった。まだ反発している一年生たちも来年には従順になるだろう。多分。

 行われる季節は決まっているが、その日にちは年によって変わった。地面がぬかるんでいてはできないし、また暑くても、寒くても、雨が降っていても風が強くてもできない。つまりあらゆる条件が歯車みたいにぴたりと合っていなくてはならなかったし、そんな奇跡みたいな日は年によって変わるからだ。日にちが決められると、その前々日にHRで担任によって発表される。なぜそんなに直前なのか、といった質問にどの教師も「二日前にならないと分からないからだ。」としか答えなかった。生徒たちの間では、森から降りてきた使いのタヌキが校長に話をしに来るのが二日前なんだとか、先生の誰かが絶好の夜をその二日前に認知できる超能力を持っているんだとか、はたまた二日前に、中庭の藤の木の五番目に太い枝だけが風もないのに揺れるのが合図なんだとか、誰が言ったか分からない実にさまざまな噂がまことしやかに囁かれている。いわゆる学校の七不思議のひとつだ。しかし所詮噂は噂だし、誰も真実は知らなかった。

 一昨日のHRで例によって連絡を受けた僕らは、今夜の為に短縮された1限から4限までの授業を終えると一旦それぞれの家に戻った(部活動も休みになる)。僕はシャワーを浴びてドライヤーで髪を乾かしてから適当に夕飯を済ませ、通学に使っているエナメルバックに明日の時間割の教科書やノートを詰めた。どうせなら次の日は一日休みになればいいのに、と毎回思う。だんだんと億劫になる気持ちを追い払うようにして居間のソファに勢いよく飛び込むと、出発までスマートフォンのパズルゲームをして時間を潰した。

 もう一度制服を着て玄関から出ると、金木犀の香りを乗せた、やわらかくてほの暖かい風が僕の頬を撫でた。なるほど今回も心地良い夜になりそうだ。まだ少し明るい西の空を見ながら夕闇に包まれた住宅街を歩いていると、前から歩いてきた長い巻き髪の小柄な女の人に、すれ違う瞬間に鞄を軽くぶつけてしまった。咄嗟に謝りながら振り向いたが、そこに彼女はもういなかった。恐らくすぐそこの角を曲がってしまったのだろう。それにしても薄暗くて周囲が見えづらい。通いなれた通学路だが、僕は普段より注意して歩みを進めて行った。

 学校に着いたら、支給される白い寝巻に女子は教室で、男子は教科準備室で着替え、荷物をそこに置いたまま中庭に集合する。僕が中庭に着いた時にはもう既に大量のタヌキたちが青々とした芝生の上に出鱈目に寝転んで、気持ちよさそうに寝息を立てていた。ザッと4〜500匹はいる。「今回もすげえな。」と、いつの間にか隣にいた同じクラスの中井が小声で言った。

 八時半を回ると各クラスの担任が点呼を取り始め、それが終わったクラスから順に枕と羽布団のセットが一人1セットずつ配られた。男女でスペースは分けられているが、それさえ守ればどこで寝ようと自由なので、僕と中井はタヌキを蹴飛ばさないように気をつけながらそこらを歩き回り、ほどほどに草の生えた土が柔らかいスペースを見つけ出すと(そこは中井が見つけた)、枕を置いて寝転び、各自布団を肩まで引っ張り上げた。すぐ側にタヌキたちが眠っている。フサフサとした毛皮の丸い塊の上辺が、呼吸に合わせて上下していた。「こいつらさ、マジでどこから来るんだろうな。」と中井が言ったが、僕は「さあ。」とだけ答えた。それは誰にも分からないし、誰にも分からないことを彼もよく知っていた。「見て、星がよく見える」と言って僕が空を指さすと、「本当だ、東京でもこんなに見えるもんなんだな。」と彼があくびをしながら答えた。僕は目を閉じると羊を数える代わりに、暗い緑の土地に無数の茶色の毛玉と、ぼんやりと浮かび上がる多数の白い布団が無秩序に散りばめられた光景を、ちょうど鳥瞰図みたいな構図で瞼の裏に描いた。毎回なんとなく思い浮かべてしまう、このシュルレアリスムの絵画的図面を隅々までよく見ようと目をこらすと、たちまちその輪郭はぼやけてしまう。青臭い地面の匂いと香ばしい毛皮の匂いを嗅ぎながら、何度も細部にピントを合わせようと懸命になっているうちに、今夜もいつの間にか深い眠りに落ちてしまった。

 目覚めると、タヌキたちの姿はどこにも見当たらなかった。いつも彼らはうんと早朝に、来た時と同じように列をなして音もなく何処かへと帰って行くのだそうだ。僕は日の光がちくちくと刺す寝ぼけなまこをこすってから隣にいる中井を起こすと、朝礼に出るために枕と布団を抱えて一緒に校舎へと向かった。

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