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サルバドール・ダリとシューレアリズム


今日はアート。YouTubeのチャンネルを変えてみました。

絵が可愛い。。。ぜひチェックしてみてください。


普通にご存知だとは思いますが、今日はサルバドール・ダリを取り上げたいと思います。


目次
・幼少期
・シューレアリズムに出会う
・政治的な関わり
・アメリカでの生活
・スペインへ帰国


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幼少期

1904年 Gerona県フィゲラにて誕生
弁護士の父親を中心とした中流階級家庭。
ダリには兄がいたが、ダリ誕生前に死去。
以後、彼の作品にも大きく影響を与え、
自分を兄の生まれ変わりと信じていたという。
ちなみに妹もいる。名前はAna Maria。

 12歳の頃、父親のススメでアート学校に通いJuan Nuñesに習う。

1921年2月 母親死去。初めての身近な人の死を体験。

1922年 マドリッドの芸術学校に入学
そこでキュビズムに出会う

その際、Garcia Lorca、Pepin Bello、Luis Buñuelを知ることに。
さらにドゥシャンなどのダダイズムにも影響を受ける。

シューレアリズムに出会う

1926年 パリへ旅を

1927年 大自慰者 (El gran masturbador)を制作

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Juan Miroを通じて、シューレアリズムのグループとコンタクトを取り始める。

そしてパブロ・ピカソと出会う。

この時期にルイス・ブニュエロと一緒に
UN PERRO ANDALUZ』を製作。
究極にシューレアリズム的な映画と言われている。

この時期に将来の妻Galaと出会う。


1931年 記憶の固執 (La persistencia de la memoria)を制作

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有名なやつですね。溶けてる時計の絵。


政治的な関わり

特に政治的な関わりがあったわけではないが、
一般的にシューレアリズム的な考えとして、左翼と相性が良かった。

そのため、誤解が起こってしまった。

ダリは文書にて「私はヒトラー主義ではない。そのような動きも意思も表明しない」と発表。


アメリカでの生活

1940年 NYへ移住 8年間住むことに

スキャンダルもありつつも、そのおかげもあってか、
現代的にいうと、これがマーケティングに寄与。

NYの5番街に作品を制作。他にも巨大広告を制作したり、
商業的にも寄与していくこととなる。

1941年 MOMAにて初の展示を開催 Juan Miroと共同展示

1942年 本を出版

これらの名声から著名な監督と仕事をすることとなる。
(ヒッチコックやウォルトディズニー)


スペイン帰国

スペインが戦争から足を引き、スペインに帰国することになる。

フランコ政権の影響もあってか、当時のスペインは
カトリックの力がより強まっていた。

さらに世界的に核の脅威、特にヒロシマの原爆投下の影響が大きくあった。


そこからインスピレーションを得て、『磔刑 (Crucifixion (Corpus Hypercubicus))』を制作。

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1969年 チュッパチャプスのロゴ制作を担当。

1982年 最愛のGalaが死去。
彼女のために購入したCastillo de Pubolaに移住。

1989年 84歳で死去


死去までに1500点ものの作品を残したという。

絵画だけでなく、彫刻、映画、広告など、多くの形式にて彼のアートを表現して残している。

彼は最後に以下の言葉を残している。

奇才」と「ダリ」の間にある唯一の違いは、「ダリ」は奇才でないということだ



おしまい

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