主観と客観 覚書

 近代性の特徴は、主観と客観の分裂にある。ロマン主義では主観に重点が置かれ、自然主義では客観が重視されるが、力点の差に過ぎない。
 自分がなぜ創作というものに興味を持つのか考えた所、創作とは主観と客観の交差する部分だからだ。主観-客観図式というのは恐らくデカルトが創始したものだが、いまだにその対立は乗り越えられていない。
 主観と客観については東洋でも思索されており、中国禅では「人」と「境」と言われる。ヘーゲルは主観と客観が相互に否定しながら弁証法を築き、最後には主客のない「絶対意識」が現れると説き、近代哲学を完成させたと言われるが、東洋においては「絶対意識」がアルファであり、オメガである。

作家というのは己の作品の中にしか居場所のない人間のことで、居場所を見つけるために創作をするのだけれど、作品が完結した瞬間、作家はその作品からも追い出されてしまう。で、また居場所を求めて新作に着手する。それをエンドレスに繰り返す。自分の作品以上に、共感できるものなんて存在しないから

 とある現代詩人の言葉なのだが、創作というものが未だに近代から抜け出ていないと思わされる。己の「内面」を提示することが「創作」であり、自己=作品である。これは近代という装置のフィクションである。「内面」など存在しない。一休さんではないが、「じゃあ内面を見せてください」と言いたくなる。僕は自分のどこを眺めても「内面」というものは見当たらない。

 進化心理学や脳科学によっても明らかにされているが、「自己」というのは様々なモジュールの集まりであるらしい。存在しない。錯覚である。だから、キルケゴールやドストエフスキー、サルトルといったような「内面へ降りていく」ようなスタイルの哲学、及び文学は、「内面」といった虚構に成り立つ近代の産物である。
 この「自己」というものの錯覚が強まったのは宗教改革やルネサンスの影響だと言われるが、僕は「書き言葉」の問題ではないかと考えている。言葉というのは音声と文字の形態があるが、文字が現れたのは今から三千年前だ。音声だけの文化においては「自己」に対しての意識が希薄であるらしい。文学や哲学といった、紙に自己を沈殿させていくような試みは、「文字」が貴族に広まってから始まる。古代インドでも文字が使われているが、ウパニシャッド哲学のような、「自己」を頂点に置くような哲学は、文字抜きではありえなかったと考える。

 「文字」が意識の襞を作るのであって、その逆ではない。ウィトゲンシュタインの「哲学探究」では、「言葉」を「日常生活」に差し戻す試みが行われているが、「文字」によって「複雑」になった「近代意識」を「素朴な意識」に「治療」する試みだと言える。ウィトゲンシュタインは哲学的問題というのをひどく嫌った。哲学そのものを問題にした。「生きる」ということが根本であって、言葉などどうでもいいのだ。

 現代社会は恐ろしく複雑であるが、錯覚の上の複雑という気がする。「人間」という現象は、恐らく、複雑ではない。近代が「複雑にしてしまった」のであって、人間というのは、生きて死ぬだけの、どうしようもなくシンプルな存在である。

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