エデンの園に帰る方法

 道元禅師の坐禅の指南書が「普勧坐禅儀」だが、この本の中で一番重要なのは「善悪を思わず、是非を管すること莫れ。」だと思う。これは坐禅中だけではなく、日常での修行でも重要だ。

 禅語に「二念を継がず」というのがある。一つ目の念(思考)は身体そのものの機能であるから止めることはできないが、その思考に絡まる二つ目以降の念は、修行により滅することができる。例えば「この料理美味しそうだなあ」という一つ目の念が起きても、それを無視すればなんの問題も起きない。その念に「でも今は軽いものが食べたい」「早く食べたい」「一人で全部食べたい」などの二つ目以降の念が連なると、苦しみが生まれる。

 「俺は誰にも愛されない」という念が浮かんだ時、それを手放すことができれば何も問題がないが、「昔からずっとそうだった、男に生まれなければよかった、世の中の何もかも憎い」と念が連鎖すると、苦しい。

 この二つ目以降の念が、唯識仏教でいう「末那識」である。末那識というのは「この身心」を「自分だ」と認める心である。なんで二つ目の念がそんな悪さをするのかは正直分からないが、二つ目以降の念を坐禅によって切るようにすると、自分の身心が自分であるという感覚がなくなってくる。鈴木大拙は「悟りとは末那識の転回である」と言っている。

 末那識には「自分を認める」という性質がある。恐らく、全ての二元論の元凶だ。アダムは善悪の実を食べて「恥」を知った。「自己」を認めたからだ。自己を認めていない時、つまり自他の区別がない時は他者からのまなざしがないが、自己を認めた途端、他者の視線に「恥」を覚える。
 自他、善悪、男女、などの二元論の元凶が末那識で、それを殺せば穏やかな世界になる。敵も味方もなくなる。

 そのためには「善悪を思わず、是非を管すること莫れ」が大事になる。坐禅とは「無条件」のことである。坐るだけで、何も肯定も否定もしない。
 恐らく一元論ですらない。信心銘という書物には「一も守る莫れ」と書いてある。

 

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