冷笑について考える

 寝れないので冷笑について考える。

 冷笑家の心理解剖をすると、冷笑というのは、一言で言って「心理的引きこもり」である。例えば、金や異性や家庭や政治や宗教を信仰している人を「くだらない」と一笑に付す。
 少し複雑な心理があるように思う。まず、世界や思想に対しての不信感が強い。何かに全力でコミットした上で挫折した経験があるか、そもそもコミットすることを恐れている。だから、何も「行動」をしない。行動をしなければ、「失敗」することがない。失敗しなければ、自己愛を守ることができる。何も行動をせずに、失敗のリスクを背負いながら生きている人を笑うこと。「絶対に負けない位置にいながら勝ち続けることができる」ので、惹かれてしまうのも無理はない。

 絶対に負けない理由にはいくつかあって、一つは「自己の思想、主張が何もないこと」だ。相手の行為や理論の欠点をあげつらえば勝利できる。こちらには行為も理論もないので、そもそも攻撃される実体が存在しない。
 もう一つは「冷笑家は正しい」ということだと思う。これは認めなければならない。冷笑家というのは必然的に「意味のある行為も理論も何一つない」という虚無主義者だ。残念ながら虚無主義は正しい。この世に価値はない。

 冷笑家というのは議論のフィールドにそもそも立たないので、僕が勝手に判断の基準を作る。正しさで言えば冷笑家のほうが(負けないという意味で)正しいかもしれないが、美しくない。カッコ悪い。ダサい。泥臭くても善を希求している人の方が美しい。
 あと、誠実じゃない。卑怯だ。冷笑家の泣き所は「身体、欲望が存在する」ということだ。結局、冷笑家も権力欲や性欲があるので、古代ならばディオゲネスのような清貧の生活を送らなければ「真っ当な人」から「口では偉そうなことを言うが結局お前もよろしくやってるじゃないか」と言われる。インターネットには身体性がない。だからSNSには冷笑家が跋扈する。本気で冷笑をする(というのもおかしな話だが)なら、他人の煩悩を嘲笑できるぐらいには解脱してほしい。

 この前、祖母と飯を食べに行った時「真剣に生きなきゃあかんよ、ほんまに、真剣に」と言われた。真剣に生きてる人の方がかっこいいよ

 

 

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