自己治療仮説 パスカル 四聖諦

 釈迦は「医王」とも呼ばれる。凡夫は心の病気だからだ。

 不安や欲望といった情動は、遺伝子が生き延びるのに役立ってきたと考えられる。性欲のない個体は死滅したであろうし、1000万円で満足する個体は1億円で満足する個体よりも淘汰されやすいだろう。というか多分、人間というのは「満足」してはいけない。個体の満足の持続=遺伝子の不利益である。不満足でないと、人間は動かない。

 このように、人間には根本的な欠陥がある。この根本的な欠陥を「苦諦」という。「人生には根本的に苦しみ、不満足、虚しさという欠陥がある」という真理だ。この苦諦は病気なのだけれど、人間はそれを直視できない。

およそ人間の不幸というものは、退屈が生み出す。満ち足りた有閑人にやる事がなくなり、じっくり考える時間が与えられれば、老いや病気や事故や死や没落、そして自分の存在の無を想像し、怯え不安になる。
そこで孤独の中で考える時間を与えないよう、気晴らしというものが必要になる。賭け事、スポーツ、社交界、戦争といったものが求められる。別にお金が欲しくて賭けをするのでも、獲物が欲しくて狩猟するのでも、彼女が好きで恋をするのでもなく、ましてそれに幸福を感じるためでもない。ただ、考えを逸らせ気をまぎらわせる「せわしさ」を求めているのである。

パンセ

 「人はなぜ依存症になるのか」という依存症の本に「自己治療仮説」という仮説が書いてあった。虐待やイジメ、それに類するものなどを受けた人間は、自己の感情調節機能が上手く機能しなくなる。そこで、酒や薬物や行為といったものに頼る(依存する)ことで、自己の感情を調整する。たしかに、身の回りのアル中やセックス依存症の人間を見ると、過去に起きた耐えがたい傷を見えなくするために、何かに依存しているという気がする。母が死んだ時に、父親の酒の量が物凄い増えたが、同じようなもんだろうか。

 そういった経験的な痛みだけではなく、実存的な痛みがある。それがパスカルのいう「神なき人間の惨めさ」である。
 人間は死ぬ、絶対に死ぬ、老いる、病気になる、惨めな生き物だ。宇宙の塵に意識がくっついている哀れな生き物である。無意味に生まれて無意味に苦しんで無意味に死んでいく塵である。これらは僕にとっては「公理」であるが、他の人に隠れているのはパスカルのいう「せわしさ」に没頭しているからだと思う。実際、癌の宣告を受ければ、人間の惨めさはよくわかる。

人間は自己の悲惨が回避されえないものだと知った時、もうそれ(悲惨)については考えずにいることが得策だと思いついた。

パンセ

 「考えずにいること」というのは、自己治療だ。自己の悲惨な運命から眼を逸らしたいから、労働、消費、賭け事、恋愛、哲学などで紛らわせる。

 釈迦は「苦諦」から眼を逸らすことこそ、苦しみだと説いた。苦諦から眼を逸らして何かに執着することを集諦という。失恋を忘れるために、酒を飲んだり性的逸脱をするようなものだ。ただ、その執着こそが本当の苦しみになる。

 話が入り組んできたので整理すると、まず「人間は不満足な塵である」という根源的な苦諦がある。それから眼を逸らして何か(人や物や地位)に執着するのが集諦という更なる苦しみである。終わりがないから。

 苦しみを終わらせるには、苦諦から眼を逸らさずに、「見る」ことだ。

仕事も娯楽もなく、情熱も精神の集中もない完全な休息状態ほど、人間にとって耐えられないものはない。その時人間は、自分の空虚と寄る辺なさと無力に直面し、心の奥から、憂い、絶望、恨み、悲しみ、苦悩がわき出してくる。

パスカル

 パスカルはこう言っているが、東洋には瞑想という技法があった。「空虚と寄る辺なさと無力に直面し、心の奥から、憂い、絶望、恨み、悲しみ、苦悩がわき出して」きたとしても、それを受容していく。認めて、受容していけば、消える。憂いや絶望に「実体」はない。心の中を通過していく雨雲に過ぎない。

 人間はみんな、実存的な痛みから逃避している依存症患者だと思う。信仰も治療のひとつになり得るが、僕は瞑想が性にあっている。依存症は治そう

 


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