日本の悟り系スピリチュアルの現状

 一時期、悟り系スピリチュアルの本ばっかり読んでた時期があったのだけれど、インドや欧米の本と、日本の本の色がかなり違う。インドは哲学+霊性みたいな感じで、欧米の本は論理的でシャープな感じなのだが、日本は良くも悪くも「バカ向け」といった感じがする。
 思いつくだけ名前をあげると、ラマナ・マハルシ、クリシュナムルティ、ラジニーシ、マハラジ、ラメッシ、ルパート・スパイラ、セイラー・ボブ、ダグラス・ハーディング、ショーン・クリストフ、ケン・ウィルバー、こういう海外の本は、哲学っぽい感じがする。「言葉にならないもの」を必死に言葉に落とし込んでいる。洋書も結構読んだが、日本みたいな「バカ向け」みたいな本はなかった。
 日本のスピ界隈にいるのがキラキラ系で、「引き寄せの法則」とか信じるタイプの人間ばかりなので、必然的にそうなるのだと思う。多分主婦が多い。浄土真宗の本を読むと姑問題について書かれてあることが多いが、あれは主婦がターゲットだからで、今のスピリチュアル界隈も姑問題が書かれてあることが多い。アセンションとか引き寄せの法則とか、そういう「バカ向け」のスピリチュアルをやっている人が、飽き足らなくなって悟り系に入ってきて、そのまま悟るという感じらしい。

 それを象徴するような本が「バタ足ノンデュアリティ」というシリーズで、4巻あるのだが、僕は全て集めている。1巻を読んだ時は意味が分からなかったが、井上義衍老師とほとんど同じことを言っているので、坐禅抜きの禅なのだと理解している。「五感だけで生活する」とか「事実から学ぶ」とか「決着する」とか、井上系の坐禅の用語が良く使われているので、井上系の本をタネ本にしたペテンかと思っていたのだが、どうもそんな感じもしない。

 道元の正法眼蔵でも難解とされている「有時の巻」というのがあって、坊主も学者もよく分からんと言っている。

いはゆる有時は、時すでにこれ有なり。有はみな時なり。丈六金身これ時なり。時なるがゆえに、時の荘厳光明あり。いまの十二時に習学すべし。三頭八臂これ時なり。時なるがゆえに、いまの十二時に一如なるべし。十二時の長遠短促、いまだ度量せずといへども、これを十二時といふ。…われを排列しおきて尽界とせり。この尽界の頭頭物物を時時なりとしょ見すべし。・・このゆえに同時発心あり、同心発時あり、および、修行成道も、かくのごとし。・・有時みな尽時なり。有草有象ともに時なり。時時の時に尽有尽界あるなり。・・いわゆる山をのぼり河をわたりし時にわれありき。われに時あるべし。われすでにあり、時さるべからず。

正法眼蔵

 まあ意味わからんのだけど、バタ足の4巻にこう書いてあった。

「いま」とはすべての現れということになります。机は「いま」です。いすも「今」です。壁も「いま」です。…(略)。草も「今」です。花も「今」です。
「いま」でないものはありません。ぜんぶが「いま」です。

バタ足ノンデュアリティ4

 道元禅師よりよっぽど分かりやすい。多分二人は同じことを言ってると思う。
 だから「バカ向け」と言っても、これは良いことだと思う。キラキラスピリチュアル系の人は道元に興味がないだろうし、そういった人がこの本で悟ることができればいいことだと思う。僕はこのシリーズめっちゃ好きだ。バカ向けって言ったら失礼だけれど、言語化が上手い。動画を見ても誠実そうだし、好きだな。
 ヘルメス・J・シャンブとかはちょっと無理だ。

 スピ本のターゲットが、主に女っぽいから、友達ができない。僕は哲学とか仏教みたいな伝統的で少し硬いのが好きだから、そういうスピリチュアル文化を語りたいのだけれど、テーラワーダ仏教なども主婦が多い。坐禅は定年退職したおじさんが多い。

 この記事書いたけど、誰に需要があるんだろう?


勉強したいのでお願いします