苦しみの生じる構造 苦しみを回避する方法

 仏教語の「苦」という言葉には「思い通りにならない」という意味がある。これが全てだ。
 ハイデガーの分析しているように、「気分」というのは「受動的」なものである。全ての気分がそうだ。なんの理由もなく退屈になることもあるし、ムカつく奴のせいでイライラすることもある。性欲が止まらなくなる時もあるし、食べ過ぎで具合の悪くなる時もある。「体調」や「気分」というのは、「自然」である。自然というのは「自ずから然り」という意味である。感情、幸福感、苦しみ、気分、体調、というのはそれらの「論理」に従って生じるのであって、僕たちが関与することはできない。
 僕たちは、幸福を感じると、それにしがみつき、不幸を感じるとそれを否定するという本能を持つ。しかしそれらは「独自の論理」で働くものなので、その「しがみつき」や「否定」は「必ず」失敗に終わる。

 そのままにしておけばいい。それだけだ。快楽も苦痛も不安も恐怖も性欲も胃痛も、そのままにしておけばいい。これが仏教の教えである。
 「独自の論理」で動いている身心の状態に、何も足さないし、引かない。事実として、それらをどうすることもできないのだから、静観しておくしかない。手を付けると、余計に混乱が広がる。

 「そのままにしておく」と、身心の状態は、生じては滅することが徐々に分かってくる。不安は現れて、消える。性欲も現れて、消える。快楽も現れて、消える。全てが無常だと分かってくると、「なんでどうせ消えるものにマジにならなきゃいけないのか」という「うんざり」の気持ちが湧いてくる。そうすると、本当に「そのままにしておく」ことができる。

 すべては不安定である。家族も金も異性も不安定であり、拠り所にはならない。思い通りにはならない。だから「思い」のほうを「事実」に合わせる。「全ては不安定である」という「正見」を持っていると、心は動揺しない。逆に「この人は絶対に裏切らない」などという「邪見」を持っていると、思い通りにならなかった時、心は動揺する。

 人間の根本的な勘違いは、どこかに「究極の安心」があると思っているところだと思う。そんなものはない。ペットは死ぬし、人間は裏切るし、神はいない。この勘違いのせいで、不幸になる。

 なんの予見も持たない。なんの望みも持たない。僕たちは何もコントロールできない。

 

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